芸術について その三



蒔絵が施された鼈甲(べっこう)の櫛について少し。
「江戸生業物価事典」によると、当時こういった鼈甲で作られた櫛、笄
(こうがい)、簪(かんざし)などは最も高価な部類のものだったということです。文化十三年(1816年)に出版された「世事見聞録」には、櫛・笄・簪などは一点が三十両から二百両ほどしていたと記されています。材料となる鼈甲は、同じ重さの金の3倍から5倍ほどで取引されていたらしい。また、当時笄一本が米五十俵から百俵相当していたということですが、米一俵は60kgだから、五十俵であれば
3000kgとなり、単純に計算して、現在玄米30kgで1万円とすると、3000kgでは100万円となります。百俵であれば200万円ということになり、蒔絵が施されたものはこれくらいしたのでしょうか。

「世事見聞録」ではさらに、
享保の頃(1730年代)、油町に白木屋某といえる豪福の娘、奢りものにて金二十両の価なる鼈甲の笄をさしたるを、大岡越前守殿これを咎め獄屋へ入れしといふ。その後、櫛、笄とも代銀百目を限りに御法度に成りしといふ。今は右の御法度崩れて、倍増しの価なるものを用いるなり
云々と記録されています。江戸時代には商人、町人に対する贅沢禁止令が幕府により度々発令されたようですが、それだけ商人や町人は裕福な人たちが多かったということになります。因みに、鼈甲はもともと玳瑁
(たいまい)と呼ばれていましたが、贅沢禁止令で禁制品となったときに、鼈甲と呼び方を変えて世間に出回ったということです。それだけ魅力的な素材であったようです。
以前の随想で述べた伊藤仁斎の私塾では、そこに集まってくる弟子たちの多くは、様々な楽しみはやり尽くして、最後に学問の楽しみを知ったとも云えるわけで、ですから、当時の塾の中にはご馳走を食べながら講義を聴くということも行われていたということです。
一方で、武士たちは経済的には苦しかったようですが、将軍家や
石高の多い大名家になると話は別で、そこでの調度品は贅を尽くしたものが多く、現在に伝わっているものも多い。それらの多くが明治維新後、海外に流出してしまったのです。
(2006年)、日本でボストン美術館の日本美術の所蔵品とバーク・コレクション(弥生時代から江戸時代の日本美術のコレクション)が巡回展示されていますが、アメリカで所蔵されているこれらの日本の美術品を目にすると、改めて日本の美術のすばらしさに目を瞠らされるのです。その中でも特に、私は藤原時代のものに魅力を感じます。彫刻に特に興味を惹かれ、今回初めて目にしたバーク・コレクションの中の神像には深く感動してしまったのです。あの大らかさ、何気なさ、ほのぼのとした味わい、これは藤原時代独特のものですが、その背景となっているものは何だろうと、不思議な感慨に打たれるのです。






昨日、日本刀鑑定の師匠から様々な拵え(こしらえ)を見せてもらったのですが、大名などが所有していた拵えは蒔絵を施したものが多かったということです。これは刀の拵えに限らず、飾り棚など調度品にも施されたのですが、蒔絵というものは高価なもので、ですから蒔絵師は幕府や大名、裕福な商人、町人などパトロンがいたから仕事ができたとも云えます。それが明治維新でパトロンの存在がなくなり、蒔絵仕事の需要がなくなった。それに加え維新後、それまでの日本文化を捨て去ってしまったので、一級品の蒔絵作品は海外に流出してしまったのです。これは以前の随想で述べたことですが、根付印籠(いんろう)も同じような運命を辿り、多くの秀品が海外のコレクターの手に渡ってしまったのです。
こうして海外へ渡った漆芸品(蒔絵作品)は膨大な量があるということで、たとえばオーストリアのある貴族は、所有の城の中に、屏風、箪笥、壺、硯箱など漆芸品ばかりをコレクションしているのだそうです。こういったコレクターは、欧米に数えきれないほど存在していて、コレクションされているものは当然、作られてから数百年経っているということになります。ですから修復が必要なものがほとんどなのですが、そういったことを行う専門の漆芸家が世の中には存在しているのです。もちろんその人は日本人であり、中でも更谷富造という方はパイオニア的存在であるということです。何年か前にNHKテレビで、漆芸に関する番組が放映され、更谷富造氏が紹介されましたが、欧米でこういった仕事を専門に行っている人がいる、ということが世の中に広く知られたのは、この時が初めてではないでしょうか。その時の反響は様々な方面に及んだようですが、日本の漆芸の代表的産地では、海外で所蔵されている漆芸品のレベルの高さと比較されて、イメージが下がったのではないかと危惧する声もあったということです。
更谷氏は後に本を出版されて、その中で、修復技法を公開されているのですが、それに加え、日本の漆芸界を含めた美術界全般に対する苦言も忌憚なく述べられているのです。これにはちょっと驚いたのですが、日本の所謂「人間国宝」の制度や「日展」というものの弊害についても言及されているのです。これは悪口のための悪口ではなく、更谷氏の、日本文化に対する深い愛情から書かれているというのが文脈からよく伝わってくるのですが、よくぞここまで言ってくれたと思っている人も多いのではないでしょうか・・。
このことは、更谷氏の技術の高さの裏付けがあるから言えるのだろうし、また18年間海外で仕事をして、痛感したことでもあるのではないかとも思えるのです。「自分は一匹狼としてやっているから」とも述べていられるますが、これまで誰も口にしなかったことをここまでハッキリと言えるというのは、羨ましくも感じたのです。
また、海外には修復を必要とされている漆芸品がまだ山ほどあるということで、そのためには、これからの若者に自分の技法を伝える必要があると強く感じておられ、すべてオープンにしているのだそうです。それから、日本文化の伝統ということにも深く考えが及んでいて、これは刀鍛冶の人間国宝だった故隅谷正峰氏も同じことを口にされているのですが、伝統というものは、それまで伝えられた技術を使って、現代人の需要に適ったものを創造する、それが伝統を次の世代に伝えていくために必要なことなのだ、ということなのです。昔はこういう技術があったということで、そのことだけを再現するのは単なる伝承であって、そういったものはすぐに消えてなくなってしまうと云うのですね。






神戸で開催されている(2006年)ボストン美術館所蔵の江戸時代の肉筆画を見に行った帰りに、三田市にある夢工房というギャラリーに寄ったのですが、そこで目にしたものは江戸時代の浮世絵よりも心に残ったのです。そのギャラリーでは、ちょうどアジアの布展が行われていて、そこに展示されていたアジア各地、それからアフリカで織られた新作の布はどれもすばらしいものばかりで、目を奪われてしまいました。特にインドの刺し子の布はその技術、デザイン共に高いレベルにあると感じました。インドといえば、今後中国に次いで経済発展をしていくものと見られているようですが、芸術に関しても、当地の現代画家がインド国内で人気が上がり、盛んに取引されたりしてるようなのです。こういったことは当地の新聞記事にも取り上げられたりしていて、インド国内のオークションで、人気のある作家などは日本円で数千万円から1億円以上で落札されたりしているのだそうです。このことは1980年代の日本のバブル期を彷彿とさせられるのですが、当時の日本の現象と違っている点は、日本では自国の新作の絵にはほとんど興味を示さなかったのではないでしょうか。インドでは自国の現代画家に人気が出ている。こういった、自国の芸術家を買っているという現象に何かインドという国の底力のようなものを感じるのです。あの刺し子の布を見ても、半端じゃない何かを感じます。
江戸時代の肉筆画の展示会を見に行ったのは、北斎のものを見るのが主な目的だったのですが、展示されているものは浮世絵がほとんどでした。浮世絵には興味があまりないので、七点ほどの北斎を見るのに時間はかからなかったのですが、その中に広重の肉筆画が一点あって、それには釘付けになってしまったのです。広重は若い頃から心を引かれているのですが、ここしばらくは目にしていなかった。ところが思いがけなく広重を見て、自分の体質にいちばん合っているなということを再認識したのです。北斎の大胆でスケールの大きな世界は憧れます。ですが、広重の このしっとりとした空気、余韻、心地よい緊張感に日本人らしさを共感できる。ああ、これが日本人の感性なのだと実感できるのです。






広重といえば、ゴッホも深く傾倒していたようですが、たとえば、広重の版画をゴッホが油絵で模写しているものを見てみると、ゴッホが感じていた、あるいは見ていた広重というものを、何となくではありますが垣間見ることができるような気がするのです。
ゴッホは、広重などが描いた日本の風景を見て、日本という国は
アルル
(南フランス)よりも明るい世界だ、と弟のテオに手紙で書き送ったりしていますが(参照)、このことは以前の随想で述べた小泉八雲の日本への思い込みを髣髴とさせて微笑ましくもあります。
一方で江戸時代の日本の画家も、北斎などは西洋の描き方を熱心に研究していたりするのです。ゴッホが模写した広重の絵と、元になっている広重のそれを見比べてみると、構図は同じですが、その世界、空気、空間、時間のあり方はやはり違っています。これは当然のことなのでしょうが、こういったことは、模写をしているゴッホは当然判って描いているのでしょうか、それとも知らず知らずのうちにそうなっているのでしょうか。興味深いところです。

篠山市に立杭
(たちくい)という古くからの陶器の生産地があり、
そこに今年(2006年)陶芸美術館が建てられました。
そこで今、バーナード・リーチ展が開催されているのですが、リーチの作品をこれだけまとめて見るのは初めてのことで、たいへん興味深かった。
その中でおもしろいなと思ったのはリーチのデッサンで、とくに日本の風景を描いているものは、日本の風景なのですが、現われている世界は日本ではないのですね。ヨーロッパかどこかの空気なんです。ヨーロッパの画家たちが描いている風景と同じ空気なんですね。これなんか見ていると、ゴッホが描いた広重の模写をついつい思い出してしまうのです。それに関連して、ある時、もう15年ほど前になりますか、ルドンの展覧会を見ていたとき、その中にあった若い頃の1枚の風景画が、日本の画家岸田劉生が描いた風景画と全く同じ世界に感じたことがありました。そのとき、私の中にある岸田劉生の風景画がパッと現われたのです。あの体験は、何とも不思議な感覚でした。

話をリーチに戻しますが、展示されていたリーチの陶芸作品の中では、陶板に特に目を惹かれました。ああいったものは日本にはないものですね。新鮮でした。それから、器では、やはりイギリスの
スリップ・ウェア
風の焼き物がすばらしいと思いました。これも日本人にはとうてい真似のできない感覚だと思います。それに対し、いわゆる日本風の絵付けのものは、何か違うなと感じてしまうのですね。良い悪いではなく、何か違うのです。リーチは日本の焼き物に触発されて、日本で修業を始めているのですが、それでも行き着いたところは日本ではなかったというところに、物を作る者として、たいへん興味が湧くのです。ということは、私のように日本人が西洋の楽器を作っているということも、何かちょっと違うことなのでしょうね。でも作りたい。それしかできない。これは開き直るしかないのでしょう。
バーナード・リーチはどうだったのでしょうか。






焼き物に絵付けをするということは、やはりこれも一つの贅沢であったのでしょうが、これを日本について見てみると、日本独特の好みがあったと云えるのではないでしょうか。
日本では縄文時代から焼き物は作られていて、これは世界的に見ても最古の部類に入るものらしいが、この時代の土器はご承知のように大仰な装飾が施されていた。ですが、私が知る限りでは絵付けをしたものはごく少なく、これは次の弥生時代になっても同様と云えます。それは8世紀の奈良時代の頃までそれほど変わりません。縄文土器、弥生土器、それから弥生土器の流れを汲む土師器
(はじき)は野焼きで焼いた素焼きのものがほとんどでしたが、5世紀頃に朝鮮半島から新しい技術が伝わり、現在のように窯で焼き上げるようになったということです。そうすると、当然焼き上げの温度を高くすることができ、それまでよりも丈夫なものを作ることができるようになった。これは須恵器(すえき)と云われているものです。そういったなかで、現在の岐阜県の東濃地区(多治見市、土岐市)一帯の猿投(さなげ)という所では、灰釉や緑釉といった釉(うわぐすり)をかけて焼かれるようになります。8世紀から9世紀にかけてのことです。この須恵器と猿投焼というものが、今の焼き物の元祖ということになります。
若い頃、岐阜県の小原村というところに楽器の材料を買い入れに行ったことが何度かありますが、そこに行く途中、猿投の地を通るのです。それで、そのことを業者の社長に尋ねたら、「そんなもん、そこいらの山ん中に入ったらゴロゴロしとるわ」と岐阜弁で言われたので、大喜びで、さっそく帰る途中あちこち見て回ったのですが、結局猿投焼きの陶片は見つかりませんでした・・。
日本の焼き物の歴史の流れとしては、前述の須恵器は備前焼につながり現在に至り、猿投焼は常滑
(とこなめ)焼、それから瀬戸焼につながっています。その常滑焼から丹波焼、そして信楽(しがらき)焼へと派生していったということですが、これらの代表的日本古窯の焼き物は基本的に絵付けは行われませんでした。信楽焼きには桧垣文(ひがきもん)という文様が彫り込まれているものを多く目にしますが、絵付けのものはなかったようです。
さて、日本の焼き物に絵付けが行われるようになったのは、やはり桃山時代からでしょう。京都では茶道の大家千利休の指導によって長次郎が楽焼を創始し(これは絵付けはあまり行われていませんが)、
美濃では志野焼、織部焼が作られました。また伝統の備前、
信楽、伊賀でも茶陶の需要が増え、その他、萩、唐津、薩摩などの窯が開かれました。中でも利休の門下で武将の古田織部(ふるたおりべ)の好みによる織部焼は、独特の形と絵付けで他を圧倒するほどのものでした。これは後の緒方光琳・乾山兄弟、それから本阿弥光悦、俵屋宗達といった琳派の作家たちに大きな影響を与えたと思われます。






一方では、中国から輸入される焼き物も多かったようで、16世紀頃の日本の焼き物は、宋から輸入された磁器の影響を大きく受けていたようです。ここでも中国と日本の絵付けにはその国柄が出ていて興味深いのです。中国の隣の朝鮮の焼き物も当然中国から影響を受けていて、同じ様式のものが、絵付けについて見てみると、中国では器全体に派手に描かれていたものが朝鮮→日本と移るに従い、だんだんと地味になっていくのです。このことは、他に例えるなら、寺院の屋根の形状をみても同様のことが云えます。中国の屋根は大きく反りが付いていますが、仏教が日本に伝わり、そこで寺院が建てられるようになると、その屋根の反りは中国のものよりも穏やかになるのです。梵鐘の形状、装飾についても同じことが云えます。
日本に入ってきた朝鮮の焼き物は、茶道具の茶碗では利休の好みが反映されてか、井戸、斗々屋
(ととや)、伊羅保(いらほ)と呼ばれるものが好まれ、現在では国宝になっているものもあります。
これらは絵付けは施されておらず、無地の景色を味わうもので、
これを「侘び、寂び」と云っていますが、これは日本人独特の美的感性とされているのは周知のとうりです。この「侘び、寂び」というものは欧米の人々にはなかなか理解できないようで、海外の日本美術のコレクターも、さすがにこういったものを好んでいる人は少ないようです。先般見に行ったアメリカのコレクター、バーク・コレクションの中にも茶道具は数点しかありませんでした。
江戸時代になってヨーロッパへ輸出されるようになった日本の焼き物は、有田焼の白い地肌が貴ばれたとはいえ、やはり派手な絵付けのものが多かった。古代ギリシャ、ローマ時代の焼き物(テラコッタ)も普段使いのものは地味なものもありましたが、装飾を行った場合はやはり器全体に満遍なく施されました。イスラム、ペルシャのものもそうです。こうしてみると、焼き物の装飾というものにも、その国の文化が反映されていているわけですが、それらには衣食住と芸術の両方の要素が含まれていて、国の特徴、あるいは民族性というものが顕著に表れているのではないでしょうか。
こうしたことを踏まえて、先のバーナード・リーチの焼き物を見てみると、リーチが生まれ育った所で身に付いたもの、感性、あるいは体臭といったようなものは、表現様式が変わっても変わらないような気がするのです。ゴッホがいくら広重に感動したからといっても、広重を模写して描かれたものには、ゴッホの個性、体臭がはっきりと出ているのです。ゴッホはミレーにも深く傾倒していますが、ミレーを模写したものも、これはどう見てもゴッホなのですね。これは、ゴッホの凄さかもしれませんが、こうしたことにゴッホ自身気付いていたのでしょうか。
先日見に行った画家の熊谷守一展で、初めて目にした、コップに挿された水仙の花の油絵に深く感動したのですが、この絵にしても、これだけハッキリとした画家の個性を出すのに、画家はどれだけ自分というものを、あるいは自分の技術というものを制御しているのでしょうか・・






日本の焼き物は地味だと書きましたが、例外もあって、おもしろいことに、この外れ方が尋常ではないのです。それは九谷焼と云われているものですが、中でも古九谷と呼ばれているものは、こういった雰囲気のものは、ちょっと他には見ることができないのではないでしょうか。エジプトの雰囲気ではない。ギリシャ、ローマでもないし、西アジアでもない、東南アジアにも見られないと思います。
九谷焼の器の底には「福」という字が書き込まれているものがあり、こういったことは中国でも行われるので、中国の影響を受けていると思われないこともない。中には明らかに中国風のものも見られますが、主に緑色と柿色
(黄色)で描かれた色絵の世界は、これはどう見ても中国とは思えません。琉球、それからアイヌの影響も感じられない。これも日本独特の世界なのだと云えばそうなのでしょうが、それ以前の日本には見られないのが不思議といえば不思議なのです。いったいどこからの影響なのでしょうか。
九谷とは、現在の石川県加賀市で、古九谷とは江戸時代の初めに開かれた窯のことを云っていますが、操業を始めてから数十年で突如廃業しているのです。このあたりの事情は今のところ詳しくは判っていないようですが、窯を開くにあたって、当時、藩から焼き物の本場有田(現在の佐賀県)へ技術の習得に赴かせたということですが、元々古九谷焼は有田で焼かれたものであるという説も有力のようです。というのは、当時の九谷の窯元跡からは、古九谷と思われる陶片がほとんど発見されておらず、有田の窯跡からはそれらが出土しているのです。どちらにしても古九谷焼は数十年の間しか焼かれず、忽然と消えてしまったのです。

因みに、20年ほど前に、現代物ではありますが九谷焼の鉢を購入したことがあります。これは今でも気に入って使っているものですが、当時は経済的にはかなり苦しい時期であったのですが、こういったものは見つけた時に買っておかないと、次に行った時にお目にかかれる保障はないものなので、清水の舞台から飛び降りました。
こうして、実は何度も飛び降りているのですが・・






乾山(けんざん)についてちょっと書いておこうと思うのですが、
尾形乾山は私にとって光悦と並ぶ人生の師であります。
もちろん両人とも桃山〜江戸時代の人物ですから私淑しているだけなわけですが・・
今回は乾山の中でも「佐野乾山」と云われているものを少し取り上げようと思います。京都に生まれ京都で育った乾山が、75歳のときに下野
(しもつけ・今の栃木県)国の佐野に移り、そこで作られた陶器を一般に「佐野乾山」と呼んでいるのですが、それが世に出たのは昭和時代のことです。乾山の作品は、京都時代から乾山焼として有名でしたが、その乾山が佐野に移ったのは元文二年(1737年)で、その後およそ1年間に亘って焼かれたものが佐野乾山というわけです。乾山没後
(亡くなったのは寛保三年(1743年)で81歳でした)しばらくは、世の中でもてはやされていただろうことは想像できます。
それが各蒐集家の手許に落ち着いて、代が代わったりするにつれ、少しずつ忘れられていったのでしょうが、乾山没後二百数十年の後、再び世に出たわけです。
尾形乾山といえば世界的な評価を受けている陶工ですが、兄は
これまた超一流の芸術家尾形光琳です。乾山の焼物は数が少なく、焼物好きの好事家にとってはそれこそ究極の焼物だったわけです。それが、昭和37年に二百数十点が栃木県の佐野から一度に世に出たわけですから、これは大事件でした。当時の新聞は大々的に報じ、やれ偽物だ、いやホンモノだ、と世の中大騒ぎになり
国会でも取り上げられたほどでした。
このときの様子を振り返ってみると、いろいろとおもしろいですね。贋作だと主張していた人々の中には、最初に佐野乾山を見出した人物もいます。昭和16年頃に佐野での乾山を六点ほど発見し、
そのことを本にして出版までしていた、それが、降って湧いたように二百数十点もの乾山が見つかったのだから、心中穏やかではなかったようです。この人物はその後、第一発見者は自分であると喧伝しつつ、新発見の乾山を否定する運動まで繰り広げるのです。
それから、最も大きな圧力をかけてきたのが陶器・磁器の販売を行っている業界団体でした。今回のように大量の乾山が出てくると価格が下がり、これまでのように大儲けができないと危惧したのか、新発見の佐野乾山を贋作として世間に印象付けるため、その
協会と癒着関係にある陶芸作家、研究者、学者たちを総動員して働きかけたのです。これらの専門家たちは名誉や身分に関わることなので、護身のため仕方がなかったのかもしれませんが、それほど業者との繋がりが強かったともいえるのでしょう。





こういった日本での社会現象を首をひねりながら見ていたのが
イギリス人の陶芸家バ−ナ−ド・リ−チ氏でありました。
バ−ナ−ド・リ−チは柳宗悦
(やなぎ むねよし)率いる大正時代の
白樺派のメンバ−の一人で、当時の民芸運動の一翼を担ってもいました。この民芸運動に関しては、私はあまり評価できないと思っていますが、そのことはまた別の機会に述べるとして、バーナード・リ−チは、自身も陶芸家でもあるわけですから乾山のことはもちろんよく知っており、知っているどころか、氏は六代目乾山の弟子であり、その上、初代乾山に関する研究書を自国で出版する運びとなっていたのです。そういった時に、佐野で乾山が発見されたとのニュ−スが入ってきた。彼は早速日本に赴き、その中の七十点ほどを目にし、これはすべて本物の乾山で、他の何物でもないとの判断を下すわけです。それでイギリスで出版することになっている
光琳・乾山の本の原稿や写真を大幅に変更し、このように新しい
乾山が出てきたのなら、これまでの乾山は考え直さねばならないと、リーチは新しく発見された乾山直筆の「手控」と作品の写真を
追加するのです。
一方、バ−ナ−ド・リ−チの親友である、同じ陶芸家の浜田庄司と富本憲吉は乾山の真偽に関しては明確な意思表示をしなかったのですが、このことをリ−チは、「二人とも絵が分からないのだ」と
たいへん悲しんだということです。が、両人とも先に述べたように
陶磁協会などとの関係から、深入りを避けていたのでしょう。
日本独特の現象ですが、こういったことはリ−チには理解できなかったようです。 
この時に発見されたものは、乾山の作品の他、乾山がメモ書きしていた「手控」があり、この量もかなりのものなのです。
佐野の地に初めて赴いたときの心情、そこでの人間関係、そして新たな地での焼物に使う土のことなど等、これらを目にすると乾山の文人、そして画人としての教養の高さと趣味のよさがよく伝わってくるのです。それから、これは私がもっとも興味のあるところなのですが、見知らぬ土地で、まだ本業の焼物をすることが叶わぬ頃に、手慰みとして作品の下絵を書いているのです。こういうものを今度作りたいなぁというような憧れですね、そういったものがたくさん描かれているのです。そして後にその下絵のような作品を実際に作っていたりするのですね・・・。






元文二年(1737年)、乾山75歳のときに初めて佐野の地に足を踏み入れた年ですが、その前、69歳のときには江戸に移っていました。江戸では当地の大富豪冬木家の世話になっていたのですが、そこで焼かれた作品も評判がよく、おそらくそこで知り合ったであろうと思われる佐野の風流人(実業家でもある)に請われ、結果的には佐野に移ることになるのです。
最初は、江戸で世話になっている冬木家の手前もあり、乾山はその申し出を断っていたのですが、佐野の大川顕道の手紙を江戸の乾山の下へ持ってきた使いの者の態度と人柄に感心し、佐野訪問を受け入れるのです。その時点でも、佐野の地に移り住むということなどは思ってもいなかったようで、ただ当地の人々と風雅の交わりをするくらいの軽い気持ちでいたようです。
その最初の佐野訪問のときの様子を乾山は詳しく書き残しているのですが、そこのところを少し見てみようと思います。
江戸の浜町河岸から舟に乗り大利根に出、支流の渡良瀬川に入り、古河を経て越名河岸に上陸するまでの、云ってみれば道中記のようなものです。
少し書き出してみます。渡良瀬川に入ったところで、

わたらせの岸辺こそ めにしむものことことく画を見るさまに見うけられ申候、山うくいすの川をわたりゆくねちめこそは鴨にては味わへぬことと存し候 これらのことはいづれも肝に命じて心うれしく、二夜の枕も殊の外しづかにて理右エ門殿の御もてなしは只々ありかたききわミに候事、かすかすの話のうちに心のせきもおこり不申候
・・


それから、途中で梅の花を目にしたときの心持を次のように書き残しています。

あづまにて野にさく梅の清き香を わたし場の土くれ近く はちめてなかめ申し候ときのよろこびは、身にあまるものに候
・・





乾山は佐野の地で当地の分限者(資産家)たちから茶道具の鑑定を頼まれ、多くの箱書きをしています。その多くは佐野の分限者が東国の大名から買い上げたものがほとんどのようで、種類は多岐にわたっています。楽焼の祖長次郎の茶碗から、瀬戸もの、井戸、唐津、信楽、伊賀、高麗もの、青磁にまで及んでいるのです。それから光琳の蒔絵(まきえ)の棗(なつめ)も鑑定していて、その箱書きが興味深いのです。
ご持参の黒地蒔絵申候棗事あじさい図ハ家兄光琳度々手かけしものにて そのうちのひとつならむと存申候 その折の塗師は与平 蒔絵は道甫と覚え居り申候 家兄自らの細工には落印いたせしも 工人作はその儀は不許 不肖老輩画たりと申せど この儀は譲不申候
というふうに、兄光琳の仕事の分業のことまで言及しているのです。それから光琳自らの細工には落印をし、工人が手がけたものにはそれがないということを述べているのも興味深いですね。
ということはこの棗は光琳自らの作ではないということになり、こういう乾山の正直なところに一家の矜持を垣間見ることができます。

それからもう一つ、古唐津の絵付筒茶碗については
この器ハ客揃ひの向付なれば香炉よりなりがたし 御庵席中立の縁に御火入れとして扱ハれる事よろしく鉄画の出来栄見事と存申
と箱書きしていて、使い方を提案したりしているのです。
乾山は本業に関しても徹底したところがあり、京都の鳴滝で窯を開いたときには、その準備のため全国の窯場を訪れ焼物の研究を行ったということです。それから、茶の指導は藤村庸軒から受けています。乾山が作った陶器は茶器がほとんどで、自身も表千家の茶人でもあったので、その見る目、眼力は相当のものだったようです。そのことを分限者たちもすぐに悟ったのだと思われますが、そういったことにまず私は感心してしまうのです。ですから、当時の分限者たちは、趣味における判断力を養うことも大事な素養だったということは、このことからも想像できるのです。その一つに歌を詠むこともあった。
乾山の箱書きには和歌がしたためられているものもあります。その中の一首、元文三年二月、佐野での別れのときに詠んだものを紹介します。

うきこともうれしき折も過ぎぬれば
ただ明けくれの夢計りなり






京都文化博物館で行われていた「乾山の芸術と光琳」という企画展(2008年)に足を運びました。この企画は、一口で云えば乾山焼の成立過程とも云えますし、乾山の試行錯誤の過程とも云えます。
あるいは乾山の理想の実現過程とも云えるものでした。今回の巡回企画展では佐野乾山は展示されていませんでした。図録の解説でも佐野に行ったことさえ記されておらず、最後の方の年表に
「下野
(しもつけ)佐野を訪れる」とだけあります。このことから、佐野乾山の現状の一端を知ることができるわけですが、相変わらず
頑なな御方がいらっしゃるようです。
美術館や博物館での開催だから疑わしき物は展示しないというのでしょうが、今回展示されていたものの中には明らかに乾山の手による絵付けではないものが何点かありました。そういったことは許されるのでしょうか。こうしたことは客観的に証明できることではないので、なんとももどかしいことなのですが、それに加え、「乾山」という銘はブランド名だから、絵付けや銘は乾山以外の者が書いていたものもあるという逃げ道もあるわけです。確かに乾山焼は成型は他の職人が行い、乾山は絵付けや文字書きを主に行っていたようですが、それならば尚更、佐野乾山の存在は認められるべきではないかと思うのです。バーナード・リーチ氏が出版した「乾山」の中でリーチ氏は、佐野乾山についてそれを認めない人たちへの反論を証拠を挙げて述べていますが、それに対する確たる反論はまだ出されていないようです。






先に、「乾山焼は成型は他の職人が行い、乾山は絵付けや文字書きを主に行っていたようですが」と述べましたが、佐野乾山に関しては、乾山がすべて作り絵付けをしたもの、それから弟子が作り乾山が絵付けをしたもの、また、江戸から取り寄せた素焼きを使って乾山が絵付けをしたもの、それに、乾山が去ったあと同じ窯で弟子が作ったもの、これらが混在しているということです。当然、これに後世作られた写し物が混じってもいるわけです。このことは乾山が京都で窯を焼いていた時も、江戸で行っていた時も同じような状況だったのではないでしょうか。ですから、今回行われている巡回展にも明らかに乾山の絵付けではないものが含まれていても何ら不思議ではないとも云えます。そういうわけですので、乾山の真贋について述べることは困難であるわけですが、佐野乾山の真贋論争は、贋物主張派は明らかな偽乾山を攻撃し、真物主張派は出来のよい本物を以って主張するということの繰り返しだったとも云えるわけです。
バーナード・リーチは乾山についてこう述べています。「乾山に擬せられている作品は一千点以上もあるが、佐野で発見された百五十点ほども含めて、確実と考えられるのは二、三百点以上ではなかろうかと私は推測している。それらの多くは、乾山が若い頃に鳴滝(京都)で作ったものである。」
バーナード・リーチが初めて目にした佐野乾山は70点ほどだったということですが、この時のもは、リーチはすべて本物だとしています。その後英国で出版した「乾山」という本では最初の予定を大幅に変更し、多くの佐野乾山の写真を挿入し、佐野で発見された乾山の覚書である「手控」と「伝書」の解説にも多くの紙数を割いているのです。






今回の乾山展にケチばかり付けましたが、企画としては大いに
意義のあることだと思います。何より乾山の試行錯誤の足跡を見ることができたのは私にとって何よりの収穫でした。2000年から新たに行われた、乾山が京都の鳴滝で焼いていた窯跡の発掘調査で見つかった陶片と、乾山の作品を見比べていて様々な思いがよぎったのですが、37歳のときに鳴滝に窯を開いたときに、乾山にははっきりとした構想はあったのだろうか、という私自身の問いかけの答えを得ることができたのです。私が云う乾山の構想というのは、乾山独特の絵付け、それまでの焼き物にはなかった筆跡の濃淡を施した絵付けのことですが、佐野乾山はほとんどがこの技法によって絵付けが為されています。水彩絵の具で描いたように筆の濃淡がそのまま表現されているのです。従来の陶器への絵付けですと、このようなことはできませんが、乾山はそれができるような技法を考え出しているのです。この技法で絵付けを為された世界は全く絵の世界です。
乾山の先祖である光悦
(乾山の曽祖父の妻が光悦の姉)、また光悦の書の下絵を描いていた画家宗達が描き出していた世界と同じ世界。それは宗達が尊敬していた平安時代後期の平家納経の画家たちとも同じ世界なのです。高天原そのものです。乾山の兄はかの有名な尾形光琳ですが、光琳は乾山が京都の鳴滝で窯を開いた時にはしばらく絵付けを手伝っていました(その絵付けには光琳の銘が入れられています)。それは数ヶ月続いたようですが、次第に光琳の本業が忙しくなり足が遠のいていったようです。その後しばらくは、乾山は兄の様式を使っていましたが、徐々に彼独自の絵付けを案出していきました。光琳の世界は光悦や乾山とはやや趣きが違っていて、やや生真面目すぎる感がありますが、乾山独自の絵付けにはそれが除去されて、おおらかでほのぼのとした世界になっています。75歳で佐野の地で焼かれた「佐野乾山」ではそれが完成されているのです。






乾山は筆まめだったようで、75歳のときに京都から江戸へ下行した際には途中の風景を描き込んだ道中記を書いています。それから江戸から下野(しもつけ・栃木県)の佐野に向ったときにも同様に記録していますが、佐野の地では京都にいた頃の思い出を記したり、当地の世話になった人々にお礼として道中記や様々な思い出を新たに書き記したものを渡したりしています。
そういった佐野の地で記された書き物の一つに「凡夫百舌」というものがあります。これは乾山が佐野の地で世話になっていた須藤杜川氏から請われて書いたもので、京都時代にたいへんに世話になった二條綱平卿の屋敷に出入りしていたときの思い出を記したものです。その中から少し書き抜きます・・

二条家御屋形様綱平卿こそは老輩五十年の昔には候へ共、一方ならぬ御情けを頂き申せしかけがえの之無き御方にて−中略−鳴滝の窯起せし幸せも、卿の御仁慈あればこそに候。家兄(光琳)
とて一角の画人となりつるは総じて卿の御袖に頼り申しての事に候
−中略−
二条家御屋形分御収めいたせしものの憶えは右の如くに御座候へ共、いづれも鳴滝の窯にて焚き申せしものにて、山里なる近在に住いたる家兄の添筆並びに絵付け物も百枚百椀をはるかに越え申せし事に御座候

乾山は佐野で焼いた作品についても「凡夫百舌」で述べています・・
庄内(佐野)にての焚物のうち茶碗、鉢、八寸物水差、花入のうちには、老輩心のうちにのみ、過ぎし古への御屋形納品の品々を思いかえし、そのままの姿にて焚きしもの多々之有り候も、楽もの(楽焼)の味は別情ありとは申せ、鳴滝火入ものとは土焼く火加減いづれも兄弟と申すより腹違いの親子。本と異なり居ると申すも憚りあるや知らずとも実証に御座候−中略−御屋形様御納めもののうち、やり梅茶碗は家兄の説得高慢にひと打ち当て申しての老輩の染筆もの、否心筆ものにて、卿御屋形様も殊の外めでられ、洩れ聞いたしたるお話によれば、薨ぜられし御棺枢中に御入れ申されしよし只只落涙感命いたし居り候





小堀遠州と本阿弥光悦は同時代を生きた人物で、共に古田織部という茶人の弟子にあたります(そうではないという説もある)。古田織部は、先に紹介した織部焼きの祖といわれている人です。
自身は焼き物を作ることはなく、光悦同様デザインをしたり、云ってみればプロデュ−サ−のような立場でした。
古田織部は、かの有名な茶人千利休の弟子です。ですから光悦と遠州は利休の孫弟子ということになるのですが、しかし、よくもまあこれだけの錚々たる人物が一時代に揃ったものですね。桃山時代ならではの出来事と言えるのかもしれません。
一方、遠く離れたヨ−ロッパでも同様の絢爛豪華な時代を迎えていたのです。バロック時代の幕開けです。
こういう符合はよく見られることで、たとえば、日本で歌舞伎の公演がはじまったのが1602年ということになっていますが、同時代の
ヨ−ロッパではモンテヴェルディのオペラが初演されているのです。オペラと歌舞伎の幕開けが同じ時期に相談でもしたかのように合致しているのです。
話を戻しますが、遠州や光悦の時代の京都ではそれぞれいくつかの茶人グル−プがあったようで、同じ織部の弟子でも、好みの違い、人柄の違いなどによって交友関係は限られていたようです。
派閥といってもいいのですかね。こういうことは洋の東西を問わず
いつの時代でもあるのでしょうね。19世紀のギタ−界でも指頭弾き派と爪弾き派とがギタ−を振り回しての大喧嘩になったことがあり、
その様子が描かれたりしていますが、どうでもよいことに目くじらをたてていることに気付かなくなるのが、この派閥というものなのでしょうか。
ともあれ、光悦と遠州の交友はほとんどなかったようですが、興味深いことに、光悦は利休の好みも趣味に合わなかったようです。
ある人に宛てた手紙で光悦は利休の好みについて触れていますが、あまり利休のことを良くは言っていないのです。千利休といえば、当時の大茶人なのです。利休の「り」と聞いただけで誰しもクラクラっとし、利休さまの好みのものと同じものが欲しい、という人がほとんどだったのではないでしょうか。光悦はこれに反発したわけではありません。ふつうに、自分の好みではない。それだけだったんですね。まわりの声に影響されない確たる見識眼を持っていたからでしょうが、日本人らしからぬ日本人だったとも云えるのでしょうか。
光悦は能とは深く関わっていたようですが、本職、家職が代々刀剣の研磨と目利きだったわけですから、武家社会との繋がりは避けることができなかったはず。だが、できれば避けたかったということが、光悦の行動を見てみるとひしひしと伝わってきます。
寛永の三筆に数えられるほどの達筆でもあった光悦の書を、武家の人々はみな所望していたにもかかわらず、嫌がらせではないかと思われるほど断っているのです。後年、京都の北の離れ、鷹が峯に幕府から土地を与えられたのも、あまりに幕府に反発するので山奥に追いやられたということも十分考えられるのです。
光悦と能の関わりについては、光悦が携わった仕事で見て取ることができます。一つは光悦がデザインした能管を納めるための蒔絵の笛筒です。これは能楽師の金春家(こんぱるけ)のために製作されたものだされています。これは、鷹が峯に移ってそこに築きあげた芸術家邑
(むら)、光悦邑で作られたものだと思われます。それから蒔絵の硯箱、ここにデザインされている人物、粗朶(そだ)を背負っている樵(きこり)図も能の「志賀」からとられているものといわれています。

この作品を初めて写真で目にしたときは、しばし時を忘れて見入ってしまいました。画家の熊谷守一のヤキバノカエリという絵の人物がこれと全く同じ世界なのです。おそらく、熊谷守一はこれを参考にしていると思います。もしそうでなかったとしたら、この合致は、超一流の芸術に共通している何か、要素、エッセンスのようなものなのかもしれません。
それから嵯峨本の装丁、これも光悦が携わっていました。それから観世流の謡本。このように能に関するものは多く手がけています。
光悦は、公家と町衆の人々とは緊密に付き合っていたので、そういったことから、能に関わる仕事にも携わったのでしょう。
もちろん、武家社会でも能の謡いなどは嗜好されていました。また、光悦の本業での付き合いが深かった加賀、前田藩の家老とは謡いの友でもありました。



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