芸術について その四



先日、知人の画家から自作のCDとDVDが送られてきた。
CD4枚、DVDは2枚あり、ここ数日、仕事をしながらこのCDを繰り返し聞いている。彼とはもう20年以上の付き合いになるが、彼は趣味でギターを弾き、ありがたいことに拙作のパノルモ・タイプのギター
(1990年作)を使ってくれている。その彼が今、フリー・インプロヴィゼーション(Free Inprovisation)というものに夢中になっているという。要するに即興演奏でである。曰く、何か別世界からやって来たとんでもなく美しいものを聴いてしまったかのような衝撃を受け、生涯をこの音楽に捧げたいと思っているのだそうである。ここまで言われたらこちらは何も云えないではないか・・。彼はギターを使っているが、他には現存するほとんどの楽器奏者の中にこのような活動をしている人がいるということで、彼は今のところ他の楽器奏者とセッションを行うことの方が多いということである。
本業の絵の個展のときには会場でこの即興演奏をやるということだが、即興演奏を始めた2002年頃から様々な種類のギターを試したということで、今はあまり手を広げずに、主に19世紀タイプのギターで行っているということである。CDを聞いてみると、これだったら楽器は何でもいいだろうにと思ったが、擦弦楽器の弓で音を出したりもするので、19世紀ギターのように小ぶりなのが弓が使い易いのだろう、とは思う・・。

以前、随想でも書いたが、私はこういった形式を無視した音楽は
音楽の範疇には入らないと思っている。やっている本人は音を楽しんでいるのだから音楽ではないか、と言われればそれまでだが、それでは、それを聞いている者のことは無視してもよいのか。そんなことは構わない、聞きたい人は聞いてくれればいいし、聞きたくない人は聞かなければいい。そう反論されれば返す言葉はない。実際、フリー・インプロヴィゼーションなるものをやっている人は、そういう覚悟でやっているそうだ・・。
ところが、彼のCDを聞いていると、彼のやりたいこと、あるいは表現しようとしていることが、なんとなく理解できるような気がしたのである。送られてきた4枚のCDをあれやこれやと聞いていると、自分の中にあるいろいろな風景、あるいはそれに付随した音などを連想させられた。たとえば、都会で人と待ち合わせをしていて、駅の改札を出た雑踏の中で立っているとする。そのときの様々な音、環境音というようなものを、彼のCDを聞いていて思い出したのです。雑踏の中で立っているときの自分の意識の動きまで振り返ることができたような気がした。
それから、曲によっては林の中の木々のざわめきを連想させられた。こういったことは、こういうことの元祖ともいえるジョン・ケージという音楽家もやっていたことですが、それは都会の音でもあるし、自然の音でもある、つまり何でもいいのです。ジョン・ケージは鈴木大拙が紹介した禅からも示唆を得ていたとですが、そういったイメージ音とでもいうようなものは、人によって様々あるわけだから何でも成り立つということになる。ところが、藤川氏の演奏には、私は彼の絵や以前の彼の音楽と同じ根っこを感じるのです。つまり彼の個性を感じる。演奏のなかには、子供の一人遊びと何ら変わらないようなものもあるのですが、その子供が赤の他人だったら何とも思わないことでも、その子供に親しみを持っている者にとってみれば、その仕草に慈しみを感じる。私は、彼が親しい友人だからそのように感じるのだろうか。贔屓目に見ているのだろうか・・そうかもしれない。
また、こういった即興音楽というものは、もしかしたら、何かの装飾かもしれないとも感じたのです。ちょうど食器に装飾を施すように、何かに装飾をしているのかもしれない。それは人の記憶や思い出であったり、経験であるかもしれないし、何かの感触や匂いの記憶かもしれない。そういったものに装飾があってもいいのではないか、とも思ったりするのです。
とすると、それは音楽ではないか・・

その後、藤川氏から即興演奏についての資料が送られてきたのだが、添えられていた手紙に、前回送ったCDの曲は膨大な録音の中から最も音楽的なものを選んで送ったのだと書かれていた・・。
ということは、他のものを私が聞いたら、これは絶対に音楽ではない、と口にするのだろうか・・。
彼は、クラシックの曲ももちろん好きでよく弾いたり聴いたりしているが、人前では今は即興曲しか弾かないと書かれていた。
理由は、美しい曲を自分の技術の未熟さで汚したくないということで、また、これまで雑音として相手にされなかった音や、クラシック音楽の中で見捨てられてきた音などにも、すばらしい魅力があるように思えてきたのだそうである。そうした彼の即興演奏を初めて聞いた人が、感動のあまり涙を流したりということが現実に起こっていることを思うと、こうした演奏形態を、私のように頑なに否定するというのは間違っているのかもしれないと反省させられたのは白状しておきます。
藤川氏に送ってもらった資料で、フリー・インプロヴィゼーションの現状というものが何となく判るのですが、CDに関しては、氏曰く、
超マイナーだが膨大な数のCDが出ているのだそうで、それの専門ショップもあるのだということです。それから、今注目されている
音楽療法にも取り入れられているということで、ヨーロッパの大学では音楽療法科で即興演奏のトレーニングは必修科目になっているところが多いということである。中には入学試験でも行われるところもあるのだそうだが、こういうことを耳にすると、素朴な疑問持ってしまうのである。自由に即興演奏をすることを客観的に評価することなど出来ないはずなのに、誰がどのように判断するのだろう、と、これも石頭の戯言なのか・・。
こういった屁理屈はともかく、現に音楽療法などでは効果があるということなので、その存在は意義があるのだと思います。藤川氏によると、こういった活動をしている人たちは、控えめで寛容な心を持っている人が多いということです。






子供の一人遊び、あるいは子供が描いた絵というものは人を感動させることがあります。今は亡き画家の有元利夫は、近所の小学生が鉛筆で描いた鳩の絵を見て感動し、それを譲ってもらって大切にしていたそうで、その絵にはとても敵わないと脱帽していたということです。昔の唐津焼の陶器の絵付けには子供が描いたような絵付けのものが見られるが、そういったものを好む好事家は多い。
以前紹介したこのとあるイギリス人陶芸家のバーナード・リーチ
参照)と同じ時代の
柳宗悦(やなぎ むねよし)は、こういった無心から生まれた美しさを特に貴んだようですが(氏の功罪についてはここでは言及しません)、氏が起こした民芸運動というものは、物を作る者は、まず用の美を追求し、それとともに美を求めない製作態度が必要であると説いた。
有元利夫が追及していたものもこの範疇に入るのかもしれませんが、有元は古びたものを尊び、描く絵の画面もそのようなものを
故意に作り出しています。ヒビを入れたり、擦れて剥がれた状態にしたりと、様々に工夫されています。その作品を収める額も、虫食いの状態をわざわざ作り出したりと念が入っているのです。
これは日本独特の美感である「侘び」 「寂び」に通ずるものだろうと思いますが、焼き物の肌合いも、こういった古色蒼然としたものが好まれるのが日本の美意識の特徴ともなっています。

滋賀県信楽町にあるMIHO・ミュージアムでは常設展示として、
古代エジプト、古代ペルシャ・オリエント、古代ギリシャ・ローマ、
古代インド、そして古代中国の芸術・工芸品の展示が部屋別になされています。これらの部屋に一歩踏み入れたときの空気、雰囲気というものはそれぞれ独特のものがあり、その違いはそのまま、それぞれの民族性の違いなのでしょうが、共通しているところもります。それは動物の表現の仕方というか、取り入れ方、処理の仕方というか、そういったものは何か共通したものを感じるのです。
私が気が付いたことは、動物を単独で表現する場合はリアルになされ、装飾として施される場合はわざとのように稚拙に表現されている場合が多いということです。これはいったいどういうことだろう、といつも不思議に思うのですが、これは洋の東西を問わないようです。装飾を施された器などは主に神器として使われたものだと思いますが、そういったことと何か関係があるのでしょうか。たとえば日本では、神社の神様は子供の無邪気さを好まれるということを聞いたことがあります。そういえば神社や寺院には狛犬が一対置かれていますが、これがどこかおどけた無邪気な表情をしているのも、何か意味があるのかもしれません。






芸術というものが芸術でなくなるときはどういう場合だろうか・・
彫刻が彫刻でなくなるとき、絵画が絵画でなくなるとき、音楽が
音楽でなくなるとき、文学が文学でなくなるとき、そして人間が人間でなくなるとき・・
何年か前の随想で根付のことを書いた際に、ここ丹波篠山の江戸時代の根付彫刻家「内藤豊昌
(とよまさ)のことを取り上げたことがあります。豊昌作の根付は現在でも内外のコレクターに人気があるもので、海外のオークションでは数百万から一千万円近い金額で落札されたりしているものです。この根付作家の家系が現在でも続いているということを知ったのですが、六代目の今は内藤仏具店として店が構えられているのです。そのHPからリンクされている
豊昌の研究論文
で、生まれが篠山の曾地
(そうじ)ということが述べられていますが、曾地という地名は今でもあって、ここから3kmほどの所です。この論文には興味深いことがいろいろと書かれてあるのですが、中でも、同じ根付作家の岷江が彫った虎と豊昌のそれが比較されているのは興味深く感じました。岷江の虎は黒澤明の描く骨太な男の世界であり、豊昌の虎は、木下恵介の撮る女性が主人公の映画のような対比が成り立つ、という見方には思わず膝を打ってしまいました。また、豊昌は岷江をかなり意識していたのではないかという見解も的を射ているように思うのです。
さて、根付というものは江戸時代には必需品で、印籠、巾着、煙草入れなどを着物の帯に挟んでおくときのストッパーの役割を果たしていたものです。今で言うなら携帯ストラップというものでしょうか。ですから、根付というものは用途からいって、大きさというものが自ずと決まってくる。帯にそれを挟み込もうとした場合、あまり大きすぎると挟むことができない。小さすぎると、抜けてしまう。ということで大きさは直径が4cm前後のものに納まってくるのです。これよりも大きすぎると根付ではなくなる・・
根付は以外と簡単に片が付きましたね・・
これはどうも、衣・食・住に関することは簡単に片が付きそうです。あまり大きすぎたり、反対に小さすぎるものは服としては使えない。食べて死ぬような毒や、あまりに不味いものは食物の範疇に入らない。家に関しても条件がはっきりしている。とすると、衣・食・住以外の人間の楽しみ、あるいは必要なものについては、その概念があいまいになってくるようです。ということはそれを規定したりするには時間がかかるか、場合によってはできない場合も出てくる、と云えるのでしょうか。






私は文学にはあまり親しんでいないので、小説で一人の作家のものを皆読んだというのは、少年の頃読んだ夏目漱石くらいしか印象に残っていません。漱石の次に読んだのは三島由紀夫ですが、
傷口を抉られるような氏の感受性の鋭さに耐えられず、この人のものはそれほど読まなかった。20代のある時期にはサスペンスものというか、日本の歴史を考察してもいる松本清張のものとノンフィクション作家の吉村昭のものは皆読みましたが、それ以後は小説というものに興味が湧かなかったので代表的な作家のものを齧る程度しか読んでいません。
夏目漱石の小説は少年のときから今まで何度か読み返していますが、漱石の小説中での男女関係というものは露骨な表現はなされていません。これは時代背景からいってもそうだったのかもしれませんが、かえってそれが読んでいて想像をたくましくさせられます。
三島由紀夫の小説も漱石に比べるとやや仔細な表現はされているものの、男女関係の露骨な表現はされていません。こうしたことを鑑みてみると、小説で男女関係の露骨な表現をすることを漱石も三島も意識的に避けているように思われるのです。今の若手小説家では平野啓一郎もそういう態度をとっています。平野啓一郎は三島
由紀夫に傾倒しているそうだから、その影響もあるのでしょうか。
1967年
(昭和42年)に三島由紀夫と評論家の中村光夫が対談をしていて、その中で、話が人間の共通体験と文学との関わりについて及んでいくのですが、そこで両者が一致することは、人間の日常的な体験とその対極にある異常な体験というものは文学にとり入れてはいけないということなのです。それをとり入れたら文学は終わるとまで両者は云っている。つまり人間の本能に関すること、食べること、眠ること、それから男女の肉体的な関係という日常的なことは文学の材料にはならないということなのです。一方、その対極として殺人を犯すといったような異常な体験、これも文学にとり入れてはならないと云う。その核になるところに迫ろうとするのが文学であると定義付けているのです。これは文学者一人一人の格率、あるいは思想ということで済ましてしまうわけにはいかないような気がするのです。
私が20代の頃に親しんだ松本清張の推理小説は人間の異常な体験が基になっています。吉村昭のノンフィクション小説もそうです。ということはこの両者の小説は三島由紀夫に言わせると文学ではないのでしょうか。ところがよくよく考えてみると、松本清張も
吉村昭も一見異常に見えることも日常から跳んではいないのです。
日常から少しずつ離れていってその距離が長くなっているか、吉村昭がとり上げている題材は当事者にとってはそれが日常というものもある。そして両者に共通していることは、小説の中で登場人物の日常、食べることとか、眠ること、それから男女の肉体関係は描写されていません。松本清張の小説は映画化、あるいはテレビドラマ化されていて、この場合は男女関係は映像化されています。これは聴衆には受けるかもしれませんが、反則かもしれない。三島由紀夫以後の時代にはポルノ小説というものが世に氾濫するわけですが、これなどは三島由紀夫が生きていたら何と云うのでしょうか。
絵画や彫刻では昔から裸体が表現されていて、特に女性のヌードというものは美の象徴ともなっていますが、これにもやはり表現上の何かの抑制というものはあるのでしょうか。そういえば、女性のヌードが描かれている絵の前で、いやな気分になるものは確かにありますが・・。






15年ほど前のことであったと思いますが、日本の著名な写真家二人が対談をしていて、その一人は自分の妻の棺桶に納まった死に顔を作品として発表したばかりだったのです。それに対してもう一人の写真家が、ああいうことは反則じゃないかな、と発言するのですが、それに対する当事者の反論を私は覚えていないのです。
それを覚えていないということが、今興味深いのですが、なぜ記憶に残っていないのか。おそらく、その時はたいした問題ではないと思ったか、自分の中では解決していたかのどちらかだと思うのですが、その対談が活字になる前に、私は発表されたその問題の写真を目にしていたのです。こんなものは見たくないな、とその時思ったのはよく覚えている。
この随筆で私がよく取り上げる画家の熊谷守一は、東京美術学校に通っていた頃
(1903年、23歳のとき)、帰宅途中に鉄道の踏み切りで女性の飛び込み自殺を目撃するのですが、そのことは感受性の強い守一にとってひときわ大きな衝撃だったと想像できます。
ところが、と云うべきか、画家として当然のことなのか、守一はそれをスケッチし、後年1908年、それを絵に仕上げて「轢死」と題して公募展に出品しているのです。しかしそれは主催者側から拒否されている。そのスケッチと作品は今でも残っているので目にすることができますが、それはそれほど生々しくは描かれてはいません、が、こういうことを絵にするというのは、自殺した当事者、あるいはその家族にとってはどうなのだろう、とついつい思ってしまいます。
1931年には水死人を描いた「夜」という作品を描いています。
ある美術館の学芸員は守一のこういった作品について、当時の
ヨーロッパ絵画の傾向と比較し、それはまさに明るい光に満たされた印象派の時代に、一方では夜の闇や、死、といったテーマを取り上げ、目に見えない世界に美を見出していた西洋近代美術における象徴主義の美意識につながるものだ、と解説しています。結果的に見ればそう云えるかもしれません、たしかにアーノルト・ベックリンルドンが描き出した世界は象徴的、あるいは幻想的ではありますが、熊谷守一はもっと純粋に取り組んだか、あるいは、その時は守一にはそれしかできなかったとも云えるのではないでしょうか。
1928年には守一は自分の息子が4歳で死んだときに、その死に顔を陽の死んだ日と題して絵にしていますが、その絵について後年このように守一は述懐しています。「苦しい暮らしの中で三人の子を亡くしました。次男の陽が四歳で死んだときは、陽がこの世に残すものが何もないことを思って、陽の死に顔を描きはじめましたが、描いているうちに”絵”を描いている自分に気がつき、いやになって止めました。早描きで、30分くらいで描きました。」






1947年、熊谷守一67歳のときには長女を21歳で亡くすのですが、その2年後から「ヤキバノカエリ」という絵を描きはじめ、8年後の1956年に完成させています。この絵を描きはじめた頃から
熊谷守一独特の表現が見られるようになるのですが、実は私が始めて熊谷守一の絵を目にしたのがこの「ヤキバノカエリ」なのです。
縦50cm、横60cmと、守一にしては大きめの絵で、目立たず、
何気ない地味な色合いで、最初はチラと横目で通り過ぎてしまったくらいです。その時は様々な画家の絵が展示されている企画展でしたが、どういう訳か、通り過ぎた絵が心に引っかかり、しばらく進めた足を戻して見直しに行ったのを、今でもよく覚えています。
そうして、しみじみと見ていると、この絵の前から離れられなくなってしまい、どのくらいこの前に佇んでいたのか覚えていないくらいなのです。

人間が、劇や映画を観る場合、何を求めているのでしょうか。
現実では見たくても見ることのできないリアルさか、それとも経験したくとも経験できる可能性のないことを擬似体験するためか。
又は、これまで体験してきたことを思い出すためか、もう一度味わうためか。
観る人によっては、同業者ならばもっと違った見方をするだろうし、それは人により様々であるのでしょう。見せる方としては、退屈せずに観てもらうために様々な仕掛けを施すわけですが、これを、そうと判っていて心地よく騙されてもらえるように、様々な技を駆使することになる。その時に掛ける技は、ありきたりのものほど効果があるのは、掛ける方も掛けられる方もよく判っていて、笑ってもらうためのツボも、お涙を頂戴するためのツボもちゃんとあって、掛ける方はそれをそうと気付かれないようなふりをし、掛けられる方は掛けられているのを知らないふりをして握手をする。
この時に、現実の方がリアルじゃないか、などと発言することは
御法度となっている。そりゃあ現実の方がリアルに決まっている。轢死体の絵よりも現場の事実の方がリアルに決まっている。死人の写真よりも実物の方がリアルである。だが、現実というものはあまりにも生々しすぎるのではないか。そのために芸術という表現方法があるのではないでしょうか。ただの死体だけでは芸術に成りようがないのは明らかで、やはりそこには何かの「事」がなければならない。
その死体に親しかった者はそれを目にして様々な事が思いめぐるでしょうが、他人にとってはできれば目にしたくないただの死体であります。死体と親しかった者のその「事」を人に伝えるために素材としてその死体が必要なのであれば、仕掛ける方はできるだけ目立たないようにそれを施すか、それを想像してもらえるように工夫する。
熊谷守一の「ヤキバノカエリ」にはそういった作者の工夫が行き届いていると云ってしまうと言い過ぎでしょうか。この絵を見て共感するものがあり、そしてそれがしみじみとしているものであるなら、
それは作者の2年間の「時」、長女を亡くしてからの2年間の様々な感慨、そして絵を描こうと筆を執ったときの長女に対する思い、そういったものに、絵を見た者が共感しているのではないでしょうか。親しい者を亡くした思いというものは時を経るごとに変わっていくものですが、そういったものは絵の画面には何も書かれてはいません。しかしながら、そこに静かに心を打たれるものがあるということは、そういったことも見ている者はどこかで感じているのではないでしょうか。そして、見る者がそういうふうに感じるということは、作者もそう感じていたと云っていいのではないか。
ということは、作者の工夫でそう感じると云ったことは言い過ぎになるのでしょうか。






私は音楽を聴くのはヨーロッパの中期ルネッサンスから初期バロック時代にかけての作曲家が作った曲が好きである。
国は問わない。ラ・リュー(Pierre De La Rue)、ジョスカン・デプレ(Josquin Despres)、デュファイ(Guillaume Dufay)、アッレーグリ(Gregorio Allegri)、プレトリウス(Michael Praetorius)、など書き出したらきりがないが、これらの作曲家が作った宗教音楽をよく聴く。
これらの曲を聴くと、どこか記憶に残っているような風景が広がり、風や空気を感じ、とても懐かしい心持になるのです。まさに心が洗われるという表現がふさわしい感慨を覚えます。気に入った絵を見ても同様の感じを受けるが、やはり音楽を聴いたときとはずいぶん違ったものです。こういったことは人により様々であるだろうから、それだから色んな芸術が存在しているのでしょう・・。
だからそれは、10代の若者が同世代の歌手に夢中になったり、あるいはロック・バンドに夢中になるのと、70代のご隠居が盆栽をいじるのと何ら変わりがないことなのだと思うのです。
一日の仕事を終え、自宅でくつろいでいるときに、目にしたり、聴いたり、あるいは何かを行うことで、それが明日への活力になる。
芸術というものはそういったものの一つにしかすぎないと私は思っている。こういうことに、時代が古いとか新しいとかはないと思うのです。400年前の利休が弄った茶碗も、現在の食器も同じ役割を果たしているのです。
平安時代に男女の間でやり取りされた和歌と、現代の若者が携帯メールでやり取りしていることは、何ら変わりがないのではないでしょうか。そういった携帯メールのやり取りの中にも文学的に優れているものがきっとあると思うのです。現代では「詩のボクシング」といったようなことも行われているらしいが、これなども日本で古来から行われていた「連歌」や「歌合せ」とそれほど違ったものではないでしょう。

一方では、前衛芸術も様々な分野で行われていますが、こういった人間の生活と繋がりのない空虚なものは、問題提示としての役割は果たしているかもしれないが、音楽に関しては、映画やアニメの音楽、あるいはコンピューター・ゲームの音楽など実用上のもの、あるいは何かの目的のために作られた音楽にしか存在価値はないとも云えるのではないでしょうか。利休の茶碗もアニメ音楽も役割とその存在価値は何ら変わらないのです。






東京都府中市にある大国魂神社の宝物の一つにアオイガイがあります。これは寛文十三年(1673年)に下総国の譜代大名久世広之によって奉納されたもので、寄進状には「龍宮鳥胄、伊豆国下田浦所出」と記されています。その時には他に6種類の物品が奉納されているのですが、ということはアオイガイは当時の人々にとっても珍しいものだったということになるのでしょうが、何故こういった物を神社に奉納しようとしたのか、また神社側は何故これを宝物として受け入れたのか、興味があるところなのです。

北斎にしても、ナマコを扇に描いたりしていますが、やはり心が動かされたものに対しては、それが物であるにしても、出来事であるにしても、それを描き残すという行為、あるいは、なんとか人に伝えようとするというのは、やはり人間の本能、あるいは宿命みたいなものなのでしょうね。それから、江戸時代に顕微鏡のような、物を拡大して見ることのできる器物が入ってくると、早々に雪の結晶や蚊やハエを拡大した図などが蒔絵や着物の柄として取り入れられるのです。これにはまったく驚いてしまいます。他方では古典も大切にされている。ここのところのバランスは大変うまく取られているような気がします。そういった美的な判断はとても的確なのです。
それと、これは私自身、まだ人前に書き表すほど熟していないことなので、憚れることなのですが、芭蕉が言っている「不易流行」ということなども、突き詰めればここのところのバランスの取り方を言っているような気がするのですが、どうなのでしょうか・・。芭蕉の門人たちによって書かれた歌論の一つに「旅寝論」というのがあります。この中で芭蕉の弟子筋である去来という人が言っていることで、こういうのがあります。

連歌興行せらるる時、いまだ定まる法式なし。此故に法式は連歌により粗略して、今の法式定れり。先師(芭蕉のこと)此道を和歌にもとづけ給ふといへども、法式においては古法をむねとし給ふ也。
まま、法式を破り給ふ所は、十が八・九は古実によれり
。云々

つまり、何か新しいものが出来上がるためには、まず、古いものを踏襲する必要がある。そしてそれを破り捨てることによって新しいものが出来上がるわけですが、これは我々楽器作りも全く同じなのです。このことはヘーゲルの弁証法的発展と同じことなのですが、これに関しては芭蕉はとても慎重なのです。そして自信もあまりなかった・・。とにかく上達するためには数多く俳句を作る、このことしかないと芭蕉は確信し、それを実行した人と云えます。




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