芸術について その五

地下鉄の構内で一流のヴァイオリニストがストリート・パフォーマンスを行うという、なんとも興味深い実験がアメリカのワシントン・ポスト紙の企画で行われたということです。
奏者はヴァイオリン音楽に興味のある人なら知らない人はいないというほどの有名人、ジョシュア・ベル。使われた楽器は彼の所有楽器で、1713年製のストラディバリ「ギブソン・エクス・フーベルマン」。価格は400万ドルとも500万ドル(5億円以上)とも云われているものです。実験が行われたのは、とある日の金曜日の朝7時51分からおよそ43分間。場所はワシントンDCの中心地にあるランファン・プラザ駅。この様子は隠しカメラで録画されたということです。
(動画参照 YouTube)
奏者ジョシュア・ベルはジーンズに長袖のTシャツ姿で、頭には野球帽をかぶっている。地下鉄のエスカレータ−近くの壁際に立ち、ケースからヴァイオリンを取り出す。それから、ストリート・パフォーマーのお決まりの行動、開けられたままのケースの中に見せ金の小銭を入れ、そしておもむろに演奏を始める。その様子は動画をご覧のように、人々はあちこちの入り口から改札口へ向かうエスカレーターに流れ込んでいる。
最初の曲はバッハの「シャコンヌ」、それからシューベルトの「アヴェ・マリア」、マヌエル・ポンセの「エストレリータ」などなど、そして最後にまたバッハの「シャコンヌ」。この43分の間、彼はいくら稼いだと思われますか・・?






ジョシュア・ベルが演奏をしていた43分の間に、およそ1100人の通行人が通り過ぎていったそうですが、その内、奏者の近くで立ち止まって1分以上聴いた人はわずか7人だったということです。
因みに、彼がジョシュア・ベルだと気付いた人は1人だけだった。ケースにお金を投げ入れた人は27人いて合計金額は32ドル17セント
(約3680円)。ジョシュア・ベルは3日前にボストンのシンフォニー・ホールで満員の演奏会を行ったということで、入場料はまずまずの席で100ドル(約15000円)だったそうです。彼は1分間で1000ドル(約15万円)稼ぐともいわれている演奏家なのです。その演奏家がストリート・パフォーマンスを行ってみたら、その稼ぎは43分間の演奏で3680円だった。
この企画を行う前には、もしもの事態を想定して、様々な対応を考慮していたそうです。奏者の前に人だかりができた場合、それに加えラッシュ・アワーが重なってパニック状態になった場合などなど・・、ところがそんな心配はまったく杞憂に終わってしまった。
この実験では奏者の近くを通り過ぎて駅を出た人々に対して取材も行われているのですが、40人ほどの人にその時の記憶を訊ねてみると、ほとんどの人から「急いでいて何も覚えていない」、という返事が返ってきているのです。録画された画面では携帯電話をかけながら行き過ぎる人も多く、演奏家の前ではその音に負けじと声を張り上げる人も何人かいたということです。実験が終わった数日後、ジョシュア・ベル自身もこの録画を見たそうですが、通勤時間帯なので立ち止まって聴いてくれる人は少ないと思っていたが、これほど無関心な人が多いのには驚いたと感想をもらしているのです。
また、当日のことを回想して、コンサート・ホールでは客席の咳や携帯電話などひじょうに気になるが、あの時はチラリとこちらを見てくれるだけでもありがたいと思ったと口にしているのです。続けて、「チケットを買った聴衆の前で演奏するときは、すでに僕という存在が評価されている。でも今回は違う。気に入られなかったらどうしよう、もし怒りだす人がいたらどうしようと思ったよ」。 「小銭ではなく、1ドル札を入れてくれたときには感謝さえした」。
この企画(実験)はもちろんワシントン・ポスト紙でも記事として紹介され、その際には、有名ヴァイオリニストが地下鉄の駅でストリート・パフォーマンスを行った事を額縁に入っていない絵画に譬えた評を載せたりしています。抽象絵画の傑作といわれるエルスワース・ケリーの作品を例えに出し、500万ドル(約5億円)のこの作者の絵画を美術学校の学生が行っている作品展に紛らわせておいたら、おそらく誰も気が付かないだろうというものです。また「美しさを正確に評価するためには最適の状況で鑑賞しなければならない」というカント哲学を引き合いに出したりもしています。
こういった個人の嗜好に関することは、人それぞれの関心の度合いにより評価は様々ですから、一概にこうだと決め付けること自体が間違っているのだとは思いますが、私としては大変に興味深いのです。





現代では様々な価値観が溢れています。その一つの分野に芸術というものがあり、それを好む人のなかにも、ヨーロッパ中世の音楽あるいは美術が好きだという人がいれば、ルネッサンス時代のものがいいという人もいる。いや、自分はインドネシアの美術やガムラン音楽が最高だと思うという人もいます。
音楽会にしても地域や時代を限った企画がなされたりもしています。このように現在では、音楽や美術といったものを取り上げただけでも、それぞれの人の好みにより様々な価値観が存在します。楽しみ方も、たとえば音楽では、演奏会に足を運ぶ人、DVDで見る人、CDで聴く人、昔のレコード盤にこだわる人と、様々です。
というとは、そこにそれを提供する立場の人が必要となります。
そして、需要が多ければ、何々業界というものがそこに出来上がることになります。芸術といったものは、その社会が経済的に発展していなければ、あるいは精神的な余裕がなければ要求が起こらないし、成り立ちません。ですから、それは洋の東西を問わず時の権力者、あるいは富裕層という立場の人たちにより保護・奨励されることなくしては、存続できないし、レベルの向上もあり得なかったと云えます。
たとえば美術というものを取り上げても、それにも様々なレベルのものがあるということになりますが、それに携わる者ならば、当然レベルの高いものを目指します。一方で、富裕層で美術に興味がある人の中には、現代の最高のものが欲しいと思う人もいるでしょう。そこに画商、あるいはオークションというシステムが介在すれば、需要側と供給側が満足できるかたちで繋がります。このときに、画商側の都合で過剰供給をすると当然売れ残りがダブつき、作品の価値も下がります。ギャラリー側はこうして売れなくなった作家は切り捨てます。ギャラリー側は作家に比べ強い立場にあるわけです。このようなことを避けるため、美術家によっては自らエージェントを行っている人もいます。このようなことは、我々楽器を作っている者にとっても避けては通れないことなのですが、たいへん難しい問題なのです。





アジアの美術情勢について少し・・。
2004年に始まった「中国・アジア現代美術オークション」は年々巨大化しているようです。去年でしたか、この随想でインド国内での美術情勢について述べたことがありますが、当時のインドの美術オークションでは自国の現代美術家が高く評価されているということを紹介しました。
現在の中国でのオークションも同様に自国の美術家が中心だそうですが、それよりも安価な日本の美術家の作品がここ2年ほどで急増しているということです。このことは数ヶ月前のTV番組でも放映されていましたが、それは日本で行われている現代美術のオークションに中国の画商が買い付けに来ている様子を取材したものでした。その時に人気があったのは明るい色調、雰囲気の具象画だったのですが、これは中国のオークションでも同様のようです。
香港クリスティーズでも具象画に人気があり、抽象画や淡い印象の絵は日本で実績のある美術家でも落札されなかったり、低い価格でしか落札されないようです。日本の画廊関係者は、これまで欧米主導だった美術界の流れがアジア型に変わりつつあると認めているようですが、それに比べ日本の市場には期待できないとも述べています。たとえば、海外のオークションでは300万円は開始価格だが日本では300万円以上で買える人が少ないという現実を見ると、日本市場はアジアの中心になっていく可能性は無いと見ているようです。
これは以前から指摘されていることでもありますが、日本人の美術に対する理解度は低く、買う人は自分の価値観で買っている人は少なく、また自国の若い美術家を育てるという意識もありません。バブル期に大手企業や資産家が投資目的でピカソやゴッホなどのヨーロッパの名画を買いあさり、他国の顰蹙を買ったことがありますが、今の中国の加熱ぶりを同様のバブルと見る人もいます。ですが、中国では現代の若手美術家に人気が集まっているのが日本のバブル期とは違っているところで、ですからバブルなどではなく、これからさらに大きくなっていくだろうと見る人も多いようです。
アジアの市場からの誘いを断っている日本の現代美術の代表的な画廊経営者の小山登美夫氏は、作品が市場やオークション会社の求めるものばかりになったり、作家に影響したりすることを懸念して、従来どおりの作家の個展を重ね、徐々に評価を高める方針を曲げたくないようです。






ここ数日(2008年)、仕事をしながら久しぶりにマーラーの交響曲を聴いているのですが、この巨大で強靭な世界は聖徳太子の巨大さと通じるものを私は感じるのです。強靭な世界といえば、ヴァイオリニストの五嶋みどりのバッハの世界にも驚きました。今回初めてバッハの曲がリリースされたというので早速購入したのですが、これほどスケールの大きなバッハは始めて耳にしました。これを聴いてマーラーの交響曲が聴きたいと思ったのです。五嶋みどりのCDにはもう一曲バルトークの「ピアノとヴァイオリンのためのソナタ」が入っていましたが、このような、都会の喧騒をわざわざ聴かされているような音楽は好きになれません・・。
マーラーの交響曲の中にもマーラーが生きていた時代背景のようなものが如実に出ているものもありますが、バルトークのソナタのように耳元の騒がしさはありません。
先日、兵庫県西宮市で行われたイベント、「源氏を舞ふ」を観に行きましが、これも強靭な世界でした。作舞と舞いは立花典枝氏、
三絃・地唄・十七絃筝は北野峰琴氏、ピアノ演奏と作曲を担当された釋恵一氏、語りは文学座の麻志那洵子氏、そして当日舞いに使われた能衣装と舞台背景に使われた衣装を染められた染織家の庄瀬みき氏。これら各界の実力者のパワーに圧倒されてしまいました。それと同時に様々なことが頭の中を過ぎり、しばし幻想の世界を彷徨ってしまったのです。その世界は、舞台とは何の関係もなかったのですが、共通しているとすれば、日本文化のパワーとでも云いましょうか、日本文化のすばらしさを再認識させられたということでしょうか・・。
その前の日には、NHKテレビで放映された鳥取県の青谷上寺地遺跡から発掘された弥生時代の木工品に驚かされ、そのショック状態の上に今度は日本の伝統の重さが圧しかかるという、ギブスの上にまたギブスをされ、さらにその上から絆創膏を貼られたような、妙な感覚に今でも苛まれているのです・・。
地唄の声に地響きを聞き、三絃の音に木霊を聞いた。明らかに聞きました。舞いは風であり、生き物の息吹でもありました。語りは月の明かり、17絃箏は土の温もり、そしてピアノは精霊、それらが渾然一体となって、はっきりとした世界が形造られていた。そのことに驚いてしまったのです。こういったものを真の芸術と云わなければ、他に何を云うのでしょうか。舞台上の演出、音響・照明効果などは極力抑えられていた。そして「源氏物語」という当日の主題でさえも、ほんのきっかけに過ぎないというのが手に取るように認識できたのです。これは表現の真実ではないでしょうか。現われているのは表現者でもなく、主題でもない。森羅万象を司る何か・・。
それを現すために日本人は何かを成してきた。それは芭蕉の求めていたものでもあり、世阿弥が求めていたものでもあると私の中ではっきりと確信できたのです。

同じ時期に落語の立川談志の若い頃の落語をこれもCDで聞いたのですが、この世界も強靭でした。やはり立川談志はスゴイですね。何度聞いても飽きません。






2009年4月、篠山城築城400年祭の各イベントに足を運びました。「逆説の日本史」でおなじみの作家・井沢元彦氏の講演、それから篠山の様々な作家の方々の作品展。そこで初めて出会った絵に心を奪われてしまったのです。それは田口佳代という篠山に住んでいる方が描いたものでした。絵は、知人の家具作家羽賀達哉氏の展示会場に、氏が作った額に入れられて十数点掛けられていました。
作品はみな小さなものばかりでしたが、その世界は広く、見た瞬間にその世界に引き込まれてしまうのです。静謐で、暖かく、心が穏やかに洗われます・・。絵を見ていて心の中に音楽が流れることはありますが、田口さんの絵はその音楽を聴いている心持に音楽を介さずになれるのです。
ですから、これが本当の意味での抽象(余分なものを捨て去る=捨象=抽象)ではないでしょうか。田口さんの絵は本当の抽象画です。こういったものには初めてお目にかかりました。熊谷守一の絵も好きですが、そして、この人の絵も抽象画ですが、同じようでも田口さんの世界とは全く違います。田口さんの絵には熊谷のような体臭がありません。泥臭さ、どっぷりと漬かった日本人の感性もありません。それに好感が持てます。自然そのものなのです。田口さんの我が全く出ていない。これには驚かされます。




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