日本の歴史について その四

ここのところ、どういうわけか細川ガラシャ夫人に関する資料が手許に集まってきている。別に強い関心があるわけではないのですが、ちょっと気になるので少し触れておくべきなのかなと思うのです。細川ガラシャという女性は400年ほど前の人で、歴史上有名な本能寺の変で織田信長を討ったとされる明智光秀の娘にあたる人物です。
ここ丹波篠山の地、私の工房がある般若寺から300メ−トルほど南に高城山という山があり、当時頂上には八上
やかみ城という山城がありました。この難攻不落の城を織田信長の命令により落城させたのが、この明智光秀なのです。その後、光秀は信長に造反し、京都の本能寺で信長を討ち果たすわけですが、そのきっかけは、丹波八上城の平定の折の様々な確執が元となっているようです。
京都から亀岡を経て篠山に通じる丹波街道は、源平の合戦の時代から、足利尊氏、織田信長と歴史の節目にあたる大きな事件の舞台となっているのです。その街道筋に日置という宿場町があります。ここは八上城の城下町の東はずれにあたり、その日置の旧家の蔵から薙刀
なぎなたや刀が見つかったりしています。明智光秀によって落とされた八上城の城主だった波多野氏の盛衰記である丹波戦史という本に目を通してみると、最初の頃は光秀の負け戦が続いたようです。大阪城落城のときもそうだったように、最後はだまし討ちをしないわけにはいかなかったようです。そういった戦乱の時には平民も巻き添えになるわけでしょうが、日置の蔵から見つかった薙刀や刀をみると、そういう覚悟はいつでもあったのでしょうね。
戦国時代には、特に戦乱が絶えなかった近畿から中部地方にかけては、戦争になると一般平民も巻き添えになったわけですが、ただ受身だけではなかった。先の明智光秀は、京都の本能寺で織田信長を急襲し死に追いやったのですが、それから二週間も経たないうちに、今度は光秀の方が豊臣秀吉により滅ぼされるのです。
合戦で敗れ、命からがら本拠地に戻る途中の光秀の首を取ったのは、その土地の平民だったのです。戦国時代はこういう手柄を立てれば地位も名誉もあっという間に手に入れることができたわけですから、平民といえども虎視眈々と狙っていたのでしょうね。これくらい逞しくなければ生きてはいけなかったのかもしれません。現代の平和ボケとどちらがいいのでしょうか。

細川ガラシャは、そういった意味では戦国時代を堂々と通り過ぎていったと言えるのではないでしょうか。父明智光秀の盛衰に伴い、あるときは嫁入り先の細川家の立場により父と敵対しなければならなかっただろうし、それに加え幼い我が子と離ればなれにならざるを得ないこともあった。暴君の夫の、部下に対する仕打ちを平静を装って静観する仮面もかぶらなければならなかった。細川家の面目を保つため38才で自決(といってもガラシャはクリスチャンだったので、教えにより自殺を禁じられていた。よって付き添いの者に胸を突かせた)するまで文字通り波乱万丈の人生だったわけです。私が現在工房を構えている般若寺というこの地には、以前こういう名の寺があったそうです。今は正覚寺という名の寺になっています。この寺は当時の日本の三大キリシタン寺ということになっているそうですが、詳しいことはよくわかっていないようです。
父光秀がこの地丹波を平定した年の前年にガラシャは15才で細川忠興と結婚しているので丹波にはいなかったことになるのですが、しかし、なんらかの関係があったのかもしれません。この当時のキリスト教については、九州地方が盛んだったということはよく知られていますが、関西もかなり盛んだったようです。
信長はキリスト教を容認していましたが次の秀吉になると禁止令を出します。家康は仏教に熱心でしたから、もちろんキリスト教はご法度でした。ここのところで興味深いのは、まず信長に関しては、当時イエズス会の宣教師がキリスト教を熱心に広めていたのですが、信長は容認していた。反感を持っていたのは仏教の僧侶たちでした。これは、なにも信長がキリスト教に熱心だったからとかいうものではなく、仏教に対しても同じような立場を取っていた。
政教分離といいますか、これは啓蒙主義的発想です。このことは、ヨ−ロッパに先んじていたのです。注目すべきことです。
だから宗教活動はいくら行ってもよいが、宗教が政治的に力を加えるようなことをすると、信長はそれを許さず、徹底的に潰しにかかります。比叡山の焼き討ちを行ったのもこのためです。
200年後のヨ−ロッパで起こったフランス革命も、宗教的観点から言えばまったく同じ理由によります。ヨ−ロッパの場合は信長のような一人の権力者によるものではなく、数人の啓蒙思想家によるものでしたが。






前述のように織田信長はスペインからやってきたイエズス会の宣教師たちの布教活動を黙認していた。また、当時の南蛮渡来の文物に対してたいへん興味を示し、音楽などは、信長に謁見した使節の演奏を何度もアンコ−ルしたということです。そのときに日本に入ってきた楽器はルネッサンス・コンソ−トの主な楽器、リュ−ト、ビオラ・ダ・ガンバ、フィ−デル、レベック、それからハ−プも来ていたようです。もちろんリコ−ダ−などの木管楽器もいっしょに入ってきたはずです。それからパイプオルガンも教会に設置され、驚くことにパイプは日本で調達できる竹を使ったということです。これらの楽器は日本人にも手ほどきがなされ、指導したヨ−ロッパ人が驚くほどの上達ぶりだったそうです。天正10年(1582年)には日本の少年たちによる遣欧使節がヨ−ロッパに派遣されるわけですが、このときの4人の少年(14〜15才)たちは楽器の演奏も当地で披露したということです。ザビエルが鹿児島に上陸してから30数年後の出来事です。
これが秀吉の時代になるとキリシタン禁止令が出されるのですが、それでも秀吉が天下を取った最初のころは友好的だったのです。それが、九州を視察に行ったあとに突如禁止令を出します。ここのところはいろいろと解釈されているようですが、やはりスペイン、ポルトガルの本当の目的を察したのでしょうね、私はそう思います。それは言うまでもなく日本の植民地化です。キリスト教の布教は、あくまでも表向きのもので本心は日本を征服することにあった。そのことを秀吉は敏感に察知したのだと思います。先に述べたように、宗教が政治に介入することは信長同様許さなかったのでしょう。そこに天下を取るに値する人物の力量、条件というものを見て取ることができます。もしこのときに禁止令を出していなかったら、日本はとうの昔に他のアジアの国のようにヨ−ロッパの植民地になっていたかもしれない。
これは、敷衍すれば、1900年代初頭の歴史的大事件「日露戦争」勃発の原因とも共通しているのです。日露戦争の原因の一つは、宗教的観点からいえば当時のイギリスなどのキリスト教布教団体はロシアから日本までひとつの布教地域としていた。つまりこれも植民地化の一環です。ロシアは日本を植民地にしようとしたのです。これに日本は頑として抵抗したのです。それまでアジア、アフリカの有色人種はヨ−ロッパ諸国による植民地化の対象だったわけですが、唯一日本だけが抵抗をし、絶対に不利と言われたロシアを相手に戦争をし勝ってしまうのです。当時のロシアといえば大軍事国で、世界最強といわれていたのです。ナポレオンでさえ尻尾を巻いたくらいです。このロシアに勝ったのですから歴史的大事件と云わざるを得ない。






室町時代の宗教家 一休宗純は応永27年(1420年)、27歳のときに大悟したそうですが、その2年前、25歳のときに「無門関」の公案の一つを悟り、師の華叟かそうから一休という号を与えられています。そのときの悟りのきっかけとなったのは、盲目の琵琶法師が語る「平家物語」だったというのが興味深い。その段は、妓王(ぎおう)が清盛の寵愛を失うところであったということですが、ここのところは研究者によっていろいろと解釈されているようです。私がこのことについて興味が湧くのは、一休禅師がこの時どこで誰の平家語りを聞いたのかということなのですが、そこまでは年譜には記されていません。研究者の間では何か判っているのでしょうか。
それから、一休宗純77歳のときには住吉大社の薬師堂で盲女の艶歌を聞きたいへん感動し、ついにはその盲女と恋に落ちてしまうのです。もちろんこれは相思相愛で、そういえば江戸時代末の禅僧、良寛さんにも70歳の頃に30代の尼僧との恋愛沙汰があります。こうした謂わば破戒僧が後の世に名を残し名僧として扱われているのを見ると、何か複雑な心持になるのです。そうは言っても、恋をするのは人間として当たり前のこと、なんら不思議でもないわけですが、禅宗の寺では厳しい戒律があり、修行僧は異性と交わることは禁じられていた。それでは悟りを得た僧ならば、その戒律はもう関係ないのだろうか、というごく素朴な疑問に一休禅師と良寛和尚は答えてくれているのでしょうか。
たしかに修行中の身には異性を思う邪念は、修行の邪魔になるだろうということは想像できる。ところが禅宗の寺では僧侶である以上は生涯独身でいなければならなかった。現在ではそうではないようですが、その先駆けとなったのが一休さんと良寛さんだったのでしょうか。






一休宗純が生まれたのは応永元年(1394年)、南北朝期の動乱が終わった2年後のことです。室町時代が始まると同時に生を受けた一休禅師は34年間続いた応永年間に青年期を過ごし、また、僧侶としての地位を確立していった。一方では、当時の京文化の中心的人物としても一目置かれるような立場にもなりつつあった。
180年間続いた室町時代は、京文化の華が開いた時期でもあり、途中、動乱や一揆が起こったりもしたが、それにもかかわらず応永年間に大きく花開いた勢いは応仁の大乱を迎えても衰えることがなかった。こうした背景には社会の経済活動が活発であったことが第一に挙げられますが、洋の東西を問わず、芸術、文化が花開くためには経済的発展が大前提となります。室町時代は、この社会的経済の発展に寺院の存在が大きく寄与していて、中国に留学した僧たちはその語学力を貿易の交渉にも発揮し、特に五山僧(京都の5大寺院の僧侶)は通訳だけではなく、ブローカーのようなことも行っていたらしい。こういうことは室町幕府により僧録組織が置かれたことが一因でもあるようですが、不安定な幕府に代わって経済力を増していったことは容易に想像できます。また、当時の寺院は酒や醤油など専売品を独占していたので、それらの利益だけでもかなりのものだったと思われ、その上、表立ってではないが金融業も行っていた。今で言えば経団連のようなもので、それだけではなく国家財政までも管理していた、そういう立場でもあったのです。
一方では、港町を中心に交易、貨幣の流通が発達し、裕福な階級が形作られ、これらと寺社勢力との融合も当然起こり、そういった人々が文芸、詩歌、演芸などの文化活動を盛んにしていくのです。文芸では連歌を嗜む人の集まりである「連衆」、茶の湯の「寄合」といった謂わば文化サロンの中心的人物として一休宗純はもてはやされたのであります。当時の禅寺の僧侶の日記に目を通すと、寺の調度品の営業マンや琵琶法師の来訪も多く、多忙な毎日を送っていたことが分ります。






このことは、安土桃山時代の織田信長、あるいは豊臣秀吉と千利休との関係に思いが巡ってしまうのですが、こうして鑑みてみると、禅が日本文化に及ぼした影響というものは、計り知れないほどの深さがあるのだと改めて感じ入ってしまうのです。
日本での禅宗の祖(臨済宗)栄西は鎌倉時代の人ですが、当時の中国、宗から持ち帰った茶の種を日本に植え、それと共に「喫茶養生記」を書き著した。禅と茶の結び付きはこの時から始まるわけですが、その喫茶が茶道という芸域にまで高まり、今でも多くの人々に嗜まれているのを栄西禅師は想像できたでありましょうか・・。
栄西の「喫茶養生記」に少し目を通してみましょうか。
まず、序文から・・

茶は養生の仙薬なり。延齢の仙薬なり。山谷之を生ずれば其の地神霊なり。人倫之を採れば其の人長命なり。
云々・・
序文でここまで書かれると、うむうむこれは最後まで読まなければなりませぬ、と誰でも思ってしまいますな。うまいツカミであります。本居宣長の、自前の薬袋の宣伝文句にも感心するが、栄西さんは上手ですね。続きを少し・・
天竺
(インド)唐土(中国)同じく之を貴重す。我が朝日本、亦嗜愛す。古今奇特の仙薬なり。摘まずんばある可からざる。云々・・
これもうまい。舶来品に弱い日本人は鎌倉時代も同じだったのか・・。それから、まだこれから普及させていくべきものを、「我が国にあっても嗜み愛している」と見え透いた嘘を平気でのたまうのは今のTVコマーシャルでよく見る手ではないか。栄西さん先見の明がありなさる。お次は・・
劫初
(世界の始め)の人は天人と同じ。今の人漸く下り、漸く四大(身体)五臓(内臓)朽ちたるが如し。然らば、針灸も並びに傷りやぶり、湯治も亦応ぜざるか。若し此の如き治方を好しとせば漸く弱く、漸く竭きんつきん(だめになってしまうの意)。怕れおそれずんば
ある可からざるか。
云々・・
ここまで言われるといやでも茶を飲まなければ・・。





栄西といえば日本での禅宗の祖(臨済宗)ということになっていますが、鎌倉時代の代表的な宗教家といえば、日本仏教中興の祖と言われる日蓮、親鸞、そして禅宗では曹洞宗の道元ということになっていて、道元の師である栄西は影が薄い。これは親鸞の師である法然の影が薄いのと同様ですが、鎌倉時代の一時期に偉大な宗教家が大挙して出現しているのは偶然とは思えないのです。栄西、法然といった先陣を切った宗教家は道元、日蓮の出現を予期していたかのようでもあります。ここのところが私としてはたいへんに興味深いのです。先に、栄西の喫茶養生記を紹介しましたが、これは栄西71歳のときの著作です。時は建暦元年(1211年)。それに先立ち、栄西58歳のときには代表的著書「興禅護国論」を書き著しています。栄西が生前に行ったことを一言で云えば、教えを受けた比叡山の退廃ぶりに絶望し、自ら新宗教を立ち上げたことです。
新宗教といっても根本のところは仏教ですが、仏教の本来の姿を実現させることでした。栄西はこれをまったく独力で行ったのです。
自分が学んだ宗門を批判し、その改革を試みたのは、一休も同様ですが、一休の場合は徹底的に拒絶することでそれを示した。
また著書の一つ「自戒集」では表題とは裏腹に兄弟子にあたる養叟
ようそうを徹底的に批判、罵倒しています。それは一休からすれば腐敗しきった大徳寺に渇を入れていることになるわけですが、一休も栄西と同様このことを一人で行った。時代と国は異なりますが、16世紀にマルチン・ルターが宗教改革を行ったのと全く同じ改革を試みたということが云えるのではないでしょうか。ルターが指摘した、ローマ教皇側が当時行っていた免罪符と全く同じものが一休の時代の室町時代の大徳寺でも行われていて、これは大徳寺に限ったことではなく当時の大部分の禅宗の寺では一般的になっていたようです。大燈国師の法系図にも載っている養叟は文安二年(1445年)に大徳寺第二十六世となっています。そして堺の町衆の豪商や女性までにも金銭に換えて印可状を乱発した。印可状とは本来は禅の悟りを得た者に師が与えるものです。このことは特に一休には許すことが出来なかった。
また、時は少し遡りますが、一休は6歳のときに京都の安国寺の童行
ずんなんとなっていますが、童行とは幼年で寺に入った得度とくどしていない者のことで、雑用見習いとして先輩僧の身近に仕えていた。室町時代の禅院ではこの童行が渇食かつじきといって食事の時を知らせていたそうですが、彼らは髪は剃らず、前髪をたらし、美しく着飾り、顔には白粉(おしろい・化粧)まで塗っていたらしい。この時代の僧らが作った詩にはこれらの美少年をうたった恋愛詩も多くあるということですから、これらの少年たちが、当然同性愛の対象となっていたのは想像できます。子供の頃の一休にはこのことがどういうことかは分からなかったとしても、物心が付くに従い、寺の実態を知っていくことになったはずで、このことにも批判の態度として後に「狂雲集」を著すのです。






鎌倉時代に生きた栄西と室町時代に生きた一休とは250年ほどの隔たりがありますが、ともに臨済宗の僧です。栄西は臨済宗の祖として、一休はその中継ぎとしての役割を果たしたとした場合、その手段を見てみると、それぞれの人柄、資質というものが感じられて大いに参考になると共に、様々なことを考えさせられるのです。栄西は腐敗した比叡山と袂を分かち、仏教本来の教え、行いを再興させるために自ら寺を興した。それは、彼が留学した宋(中国)で盛んだったものがベースになっているのですが、栄西の著書「興禅護国論」に目を通してみると、それは仏陀の行ったことを見つめなおすことに主眼を置いているようにもみえるのです。ここのところは、仏教の研究者の中には禅と仏教とは全く違う宗教であると主張する説もあるようですが、栄西の言っていることからはそうとは思えないのです。
仏教とは、紀元前5世紀頃、インドの王国の一つ、シャカ族の王子であったゴーダマ・シッダールタ(釈尊)が仏陀(悟りたる者)となり、その悟ったことを少しでも多くの人々に伝えるために興した教団の教えのことを言うのですが、シッダールタはそれまでの何不自由のない生活に疑問を持ち、妻子を捨て、国を捨てて悟りを求める旅に出るのです。難行、苦行の末、そういった荒行を行っても、何不自由のない享楽の生活の中にも悟りの道はなく、その中道(ちゅうどう)の中にこそ悟りの縁(よすが)があると悟るのです。
それは苦・集・滅・道という教えに集約されています。これは簡単に言うと、人の苦しみというものを取り除くための方法論で、「苦」は文字どうり苦しみです。人々の苦しみというものを集めてみると、いくつかの種類に分類できる、そしてその原因を突き止めれば滅することができる。それを滅するためには方法というものがあって、それが「道」です。これは八正道といわれているもので、八正道とは正見(正しく見る)・正思(正しく思う)・正語(正しく語る)・正業(正しく仕事をする)・正命(正しく生きる)・正進(正しく精進をする、あるいは向上する)・正念(正しく念ずる)・正定(正しく定
(じょう)に入る、瞑想する)これらの反省をすることをいいます。禅はこの八正道の中の「正定」の範疇に入るものだと思われます。
これらを行うには、やはり何が正しく、何が間違っているのかという判断基準が必要です。これは一人でできることもあるが、できないこともある。栄西は、修行のためにはまず良き師を選ばなければならないと云っています。ところがその良き師を選ぶためにはそのための判断力が必要になってくる。その段階で、もうその人の資質が問われているのです。






栄西が最初に宋に留学したのは28歳の頃とされています。栄西の出生は備中(びっちゅう・岡山県)で、吉備津宮きびつぐうの神官の子として生まれています。このように特に裕福な家柄ではなかったにもかかわらず、経済的な負担のかかる留学を果たすことができた。これについては研究者の調べで、栄西の家系に鎮西(九州)に居た宋人の豪商につながる縁があるということが判っていて、その縁で宋への留学が叶ったであろうとされています。また、一方では比叡山の座主として勢力を持っていた明雲に見出されたということもあるらしく、そのためか6ヶ月ほどの入宋の間で手に入れた経典60巻を明雲に献じています。
この、栄西をバックアップしていた明雲は、比叡山の衆徒の起こした事件の責任を取るかたちで座主を追われたということです。その後また座主として復帰しますが、その頃平家が滅亡したため、平家の護持僧であった明雲は平家を追って京に入ってきた義仲軍によって討たれてしまうのです。この間、栄西が宋の留学から帰ってから明雲が死去するまでの14年間は栄西の宗教家としての目立った活動は行われなかったようです。その頃栄西は43歳となっていました。
栄西は寿永二年
(1183年)の冬まで鎮西の筑前(福岡県)に居たらしく、これは平安時代から鎌倉時代に変わろうとしていた激動の時期でもあり、栄西はこの都の動乱を避けていたのかもしれません。2年後の文治元年(1185年)には栄西の名声が京都でも知られるようになっていました。京都に出てからは王臣の敬慕を受け、ある時などは、後鳥羽天皇の勅令で雨乞いを行っています。記録によると、栄西が神泉苑に雨を祈ると十指より光明を放ちたちまち感応し、甘露が草木に降ったということです。また病を治したりもしたらしい。こういう奇跡を起こすことにより、栄西は王臣の信頼を得ていった。こういった宗教的な奇跡は仏教では密教が得意とするところですが、栄西は比叡山の修行で身に付けていたのかもしれません(天台密教)。二度目に宋に渡ったときには、当地の禅師に密教の灌頂法を授けたりしているほどなのです。こうした所謂超能力、あるいは霊能力というものは仏教の祖釈尊も身に付けていましたが、これ見よがしに使うことは避けていたということです。
こうしたことは旧約聖書に登場するモーゼにしても、新約聖書のイエス・キリストにしても、偉大な宗教家は例外なく身に付けていたとされています。






こうした超能力、霊能力は神通力と言ってもいいかもしれませんが、この世ならざる世界は神の世界だけではなく、キリスト教的に言えば悪魔の世界もあるわけで、イエス・キリストにしろ釈尊にしろ大悟してから、この悪魔の攻撃と対決しているようです。ここでも、やはり判断力が求められているわけで、自分に身に付いた霊能力が神に通じているのか悪魔に通じているのかの判断をしなければならない。仏教では「一念三千」と言って、人間の一つの思いは三千世界に通じるとされています。その思いの良し悪しがそのまま実在界の神や悪魔と同通するわけです。昔から「人を呪わば穴二つ」と云われているように、人を呪う思いというものは、呪った相手にも自分にも向かうもので、結局は呪った本人も死んでしまう。日本では平安時代には陰陽師おんみょうじという、謂わば霊能力者がいて、武将や天皇の側近として仕えていたりしていたようですが、栄西もそういった立場で天皇に迎えられたのかもしれません。
釈尊も当時のいくつかのインドの国王から帰依されていますが、こうしたことは教団を作りあげていくにはどうしても必要なことであったのかもしれません。先に述べたように釈尊は霊能力をこれ見よがしに使うのを避けていましたが、これは仏教の教えというものが、自分というものを作り上げていくための教えだったからだと思われます。釈尊の教団には様々な戒律がありましたが、それは出発としてはやはり自力なのです。自分がまず悟り、そしてその悟りで人々の役に立つようになる。こうした利自即利他の教えが仏教の基本となっているものです。そのときの戒律は、悟ったときに身に付く霊能力が地獄や悪魔に通じないためにあると云ってもいいのだと思います。釈尊自身も大悟の後、魔との戦いを強いられています。釈尊はそういう歩みで悟りを深めていったし、教団もそのように大きくしていった。釈尊は80年の生涯でしたが、晩年には教団はかなりの規模になっていて、多くの王たちの帰依や寄進を受けていたようです。
教団が発足して最初の頃は、出家修行者しか入れませんでしたが、教団が大きくなると在家の修行者も受け入れるようになったようです。戒律や教えもそれに合せて変化していきました。つまり小乗的なものから大乗的なものへと変化をしていっているのです。これは一人の人間の悟りの段階と同じ歩みなわけです。会社や組織にしてもそうで、やはり小規模なものから大きなものへと変化していくのが発展の自然な流れなわけですが、ここのところが一休宗純は理解ができなかったと云えるのでしょうか。栄西はそういったビジョン、戦略がはっきりとあったようです。私はそう感じます。






では、一休宗純は宗教家としては失格だったのか・・
ここのところが私としては興味のあるところなのですが、先に述べたように一休は25歳のときに琵琶法師の平家物語の語りを聴いて公案を悟り、師の華叟から「一休」という道号を与えられています。その後も坐禅に深く取り組み、2年後の応永27年、27歳のときに大悟するのです。年譜では5月20日
(旧暦)の夜となっています。そのときは琵琶湖の岸辺の、葦の茂みに埋もれた小舟で坐禅をしていたということです。このときには師の華叟から印可状を与えられていますが、一休はこれを受けとらなかったということです。ここでまた興味深いのは、鎌倉時代の道元も27歳のときに大悟していて、このときは留学中の中国の天童山で参禅していたということです。道元はホトトギスの声を聞いて大悟しています。このときの、一休や道元が聞いた琵琶の音ややホトトギスの声は一つのきっかけでしかないのでしょうが、考えてみれば、これはひじょうに詩的な、芸術的な示唆ではないでしょうか。こうした禅の悟りというものが芸術と同通しているところは、禅と芸術の関係をそのまま示しているのかもしれません。
一休の得意とした詩歌は禅の境地を表すのにもっとも適していたと云えるのではないでしょうか。それだけではなく、茶室やそれに付随する作庭のセンスも群を抜いていたようです。また、能の観阿弥とその子世阿弥、その娘婿にあたる金春禅竹、これら三代に亘る役者に大きな影響を与え、禅竹は一休の庵で能を演じたりもしているのです。こうしてみると、一休宗純という人物は宗教家としての素質は十分にあったが、あまりにも純粋だったため、また芸術家としての有り余る才能のゆえ、その組織に組することは体質に合わなかった、そう言えるのかもしれません。ですが、晩年の一休宗純の動向をみてみると、師である華叟を受け継いだ兄弟子の養叟、あの、一休が徹底的に批判し続けた大徳寺の住持が亡くなった後を、寺側からの強い要請で引き受けているのです。そうして寺の改革を行い、また一休88歳のときには、応仁の乱で壊滅した寺を建て直すために尽力しているのです。その折には、一休に帰依していた堺の豪商ら多くの協力者が現れているのです。それだけではなく、僧も檀家も信者も一休宗純の志に打たれ、寺院の再建工事に参加したということです。ですから、破戒僧としての印象が強い一休ですが、宗教家としても立派な業績を残していることになるのではないでしょうか。



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