日本の歴史について その六

「幕末下級武士の絵日記」という本について。
この本は幕末の武蔵国、忍
おし(江戸から北に60kmほど離れた所)のある一人の武士が書き残した絵日記を、大岡敏昭氏が抜粋紹介したもので、2008年5月に出版されたものです。
作者の尾崎石城
せきじょうがこの絵日記を書いた期間は、文久元年(1861年)から翌二年までの178日間ということです。
絵心のあるこの武士の日常、近所の付き合いなどたいへん興味深い内容なのですが、この日記には幕末の緊迫感などというものが微塵も感じないのが不思議なくらいなのです。ですから、映画ラスト・サムライのように、幕末から明治時代にかけての武士の緊迫感は別世界の出来事のようにも感じられるのです。しかし、退廃的な雰囲気は満ちているので、この先間もなく大きな激動が来る予感はします。もしかして、これが幕末の本当の状況だったのでは・・とも思えるのです。
これら緩急様々に入り乱れた状況は人により、地域によりそれは様々だったのでしょう。そういったことに思いを巡らしていて、ふと思い出したのは江戸時代の中頃、宝暦三年
(1753年)に幕府の命令を受けて美濃の地(岐阜県)での輪中わじゅう工事をさせられた薩摩(鹿児島県)藩士の事々です・・。
このことは、先般紹介した「平家琵琶にみる伝承と文化」に目を通していて、そこに二箇所ほど記述があった、五月雨
さみだれという銘の琵琶について説明されているところでもふと思ったことでもあったのです。時代は天保の頃の幕末ですので、宝暦年間とは80年ほど隔たりがありますが、次のように記されています。
麻岡総検校
けんぎょう歳一についての記述で、

薩州公ヨリ紫檀ノ木材ヲ賜リ琵琶を
造ラシメ五月雨
さみだれト名ツク 云々

五月雨という銘にも何か暗示的な示唆を私は感じるのです・・
なぜ銘が五月雨なのでしょうか・・。五月雨とは旧暦ですから、今でいうと梅雨の雨です。芭蕉の「五月雨を あつめて早し最上川」という句も、梅雨の長雨で増水した最上川をうたった句です。話を輪中に戻しますが、梅雨の大雨で増水した美濃の地の木曽川、長良川、揖斐川という日本では最大級の大河が合流した場合、どうなるかは容易に想像できます。その地は古来から水害が絶えない地域でした。そういう土地の治水工事は当時でも最大の難工事だったのではないでしょうか。
それをなぜ薩摩藩がやらねばならなかったのか・・。






江戸時代、宝暦年間に行われた美濃の輪中工事については、インターネット上のサイトでもいくつか紹介されていますので(宝暦治水 薩摩藩などで検索)ここでは詳しくは語りませんが、そのことについて思うところを少し述べようと思います。輪中という美濃地方独特の土地は、木曽川、長良川、揖斐川が合流する所にできた多くの中州の島々を堤防で囲った所です(参照)。美濃平野は隣接する尾張平野と並んで肥沃な土地として名高く、当時から全国でも有数の穀倉地帯でした。特に下流域の輪中地帯は、増水した際に流れ込んできた栄養分で米の出来高は群を抜いていたということです。ですから、水害に合う危機感以上に、その土地の豊饒さ、魅力に人々はその土地を離れることはなかったようです。とは云っても、梅雨の大雨、台風、秋の長雨によって度々大洪水に見舞われることへの恐怖感は想像以上のものだったのではないでしょうか。記録によると、美濃側の輪中では慶長15年(1610年)から宝暦4年(1754年)の144年間に110回以上の大洪水となったということです。特にひどかった慶安3年(1650年)の洪水では、大垣領内だけでも死者1500人、斃馬700頭、流失家屋3500戸に及んだということです。
平家詞曲相伝者の鈴木まどかさんの御母堂は「平家詞曲相伝の家」という著書を出されていますが、これは先に紹介した「平家琵琶にみる伝承と文化」を詳細に解説されているような内容で、ご先祖楠美家の家伝とでも云えるものです。楠美家は代々津軽家
(青森県)に使えてきたのだそうです。
その中の五代目百沢
ひゃくざわ小左衛門則茂(この代に楠美性に変わったということです)の説明の箇所で、延宝八年(1680年)八月、弘前(青森県)で洪水があり、その時に小左衛門の父である次五兵衛は藩に対して倅せがれ小左衛門を河川の堤防工事を任せてもらうよう推したということが述べられています。結果、氾濫箇所の堤防普請奉行を命じられ、翌年には工事を完了させたということです。このように、藩の中で必要なことはその藩で賄うというのが一般的だったのでしょうが、美濃藩と尾張藩を跨ぐ格好の輪中の存在は、水の利権と、増水したときの水流を退けるための治水上のもめごとの元でもあったようです。ですから、莫大な費用がかかる治水工事は隣の藩でやって欲しいというが本音のところでしょう。そういった状況ではあっても、何と云っても尾張藩は親藩の御三家の一つですから、輪中の治水工事の要望も幕府へは通りやすかったのは想像できます。そういった要望は常々出されていたようで、延享四年(1747年)には奥州二本松藩主の丹羽家が幕府の命令で輪中の河川工事の手伝普請を行っています。ですが、この工事はそれほど大がかりなものではなかったため、それほど効果はなかったようです。このように、徳川家の新藩と譜代大名を除く外様大名は河川工事や築城などの手伝普請を命じられることが、当時はあたり前だったようです。






薩摩藩が江戸幕府から輪中地域の河川工事の普請手伝いの命令を受けたのは宝暦三年(1753年)12月25日ということになっています。薩摩藩にとってこれは寝耳に水の出来事だったことは想像できます。しかし、前触れは全くなかったわけではなかったということも想像できるのです。この出来事の2年前、八代将軍徳川吉宗が亡くなったのですが、それまでは幕府は薩摩藩を厚遇していたということです。五代将軍綱吉のときには綱吉の養女竹姫を薩摩藩に嫁入りさせたりしています。こういったことは、当時大きな富を蓄えていると噂されていた薩摩藩を蹂躙しようとしたと穿った見方もできるわけですが、吉宗の死後、代が代わると手のひらを返したように幕府は薩摩藩を冷遇するようになるのです。この原因は歴史家により様々に詮索されているようですが、新藩の筆頭である当時の尾張藩主徳川宗勝の差し金だという説が有力のようです。
ともあれ、莫大な費用を要する手伝普請の命令が薩摩藩に下ったわけです。この工事は宝暦四年
(1754年)からおよそ1年3ヶ月に及ぶ大工事となったわけですが、その間の薩摩藩の犠牲者は80数名におよび、その内50数名が切腹自殺をしているのです。このことは当時の封建社会の負の部分とも云えるのかもしれませんが、それ以上に薩摩隼人の性分、それに加え、薩摩藩の藩風といったことも原因となったのかもしれません。当然このようなことは幕府側にしてみれば体面が悪く、薩摩藩側としても幕府に顔向けができない、といったことから公としての記録には残されていないようです。この工事を終えた後、薩摩藩ではそれまでのスパルタ式の藩制を一変させて開放主義を執ったようですが、その反動でまたその改革に反対した藩士80数名を処刑するという悲劇が起こってしまったのです。






当時、薩摩藩は最も裕福な藩と云われていたようです。表向きは77万石ということになっていますが、内実は400万石以上はあるのではないかと噂されていたほどです。ですが、実情はそうでもなかったようです。確かに九州南部の日向(宮崎県)、大隅(鹿児島県東部)、薩摩(鹿児島県西部)の三国は温暖な気候により産物は豊かで、琉球(沖縄県)を領有していたこともあり、藩の収入は多かったようですが、他藩が推測していたほどではなかったようです。借金もかなりあり、その額は70万両とも云われています。これは藩主二代にわたり、結婚による祝い事が続いたのが主な原因だったようですが、先にも述べたように徳川家の五代将軍綱吉の養女をもらったり、その他毛利や尾張といった大藩が相手の祝い事なのでいいかげんなことはできなかった。ですから、輪中工事のための手伝普請の命令を受けた時にまず行ったのが資金の調達でした。藩内では触れを出し、様々なものに税を課したり、藩債を出したりとあらゆる手段で資金集めをしたようです。その一方で、二名の藩士が資金調達の任を受け、大阪、京都、伏見などの裕福な町人たちに頼みに行っています。これはもちろん利子を払っての借金です。
工事は1年3ヶ月ほどかかり、費用は40万両ほどかかったようです。その内借金は22万両ほどだったということです。納得のいかない幕府からの命令であっても、封建の世では藩の面目にかけても成し遂げなければならない。それが常識であったのです。工事に当たっては、幕府の方針により人夫はすべて現場の村の農民を使うことを命じられ、町人や専門業者を使うことを認めなかったということです。また雇った人夫の賃金は老若を問わず一律支払うように命じてもいるのです。これでは工事がはかどらないのは目に見えて判っていますが、これも封建時代の常識なのでしょうか・・






輪中工事に派遣された薩摩藩士は江戸と国元を合わせ小奉行32人、徒士164人、足軽231人、その他予備人員を含め総勢947人だったということです。これら藩士には藩主から心得書が渡され、その内容は、幕府の役人に対し無礼のないようにすること、命令には背かず、藩士同士徒党を組まないこと、喧嘩口論はかたく慎み、どのようなことがあっても堪忍すること、など、とにかく幕府の役人には逆らわないように申し渡しているのです。
先に述べたことも含め、このように手伝普請を行う側は、費用の負担と手伝いの人手を差し出すだけで、工事を任せてもらえる訳ではなかった。名目上は現場の監督をしていたが、それを検分する幕府の役人がまたその上にいるといった按配で、薩摩藩士は全くの傀儡であったようです。それに加え、工事を行う地元の農民は素人なのではかどらない、ところが、それで工事が長引けば貰える賃金は増える、そうなると薩摩藩が支払う負担が重くなる・・というふうに、なんとも理不尽なことばかりが薩摩藩側に圧し掛かるのです。当然そのことを悪用する輩が存在していて、農民の人夫を取り締まる立場の庄屋や年寄りは請負業も兼ねていたので、なかには、それで金儲けをする者もいたということです。つまり、わざと手抜き工事をさせて浮いた金を懐に入れる、またその不正工事を見逃すことで監視役の役人が賄賂を懐に入れるといった按配です・・。そのことで揉め事が起きれば間に挟まれた実直な中間管理職が自殺をする・・。こういったことは今でもよく起きる事件でもありますが、輪中工事で切腹をした50数名の薩摩藩士もすべてそのことが原因だったようです。






肥前国(佐賀県)佐賀藩に伝わる武士の指南書「葉隠」の元となっている山本常朝は、佐賀藩四代藩主鍋島光茂が死去した際に殉死を希望したが、当時、藩では殉死が禁止されていたので髪を剃って城北の山に蟄居したということです。このように江戸時代の封建社会では命がけで藩主に仕えるということがあたり前であったわけですが、特に九州の地ではそれが強かったようです。このことを洗脳、あるいはすり込みという概念で論じて片付けることもできるでしょうが、たしかに「葉隠」などは第二次大戦時の若者(兵士)への洗脳の手段として使われた事実もあるようですが、そればかりではない何か人間の本能といったようなものに、そういったことへ憧れるものがあるのではないでしょうか。徳川家康はそのようなこともよく知っていたとも云える。それは近、現代でも独裁者の、あるいは独裁国家の常等手段でもあるわけですが、日本の江戸時代のように恐怖政治色が薄いというのは珍しいのではないでしょうか。日本人は自らの判断でそれを行うという独特の道徳観があった。現代の日本人は、第二次世界大戦後GHQにより宛がわれた憲法により骨抜きにされ、アメリカの思惑どうり思考停止させられていますが・・

明治時代、新渡戸稲造がアメリカ留学中に英文で書き、当地で出版された「武士道」のなかで、武士とヨーロッパの騎士道を並べて論じているところがあります。その件で、イギリス文学の戯曲と散文のなかに近松門左衛門と滝沢馬琴に置き換えることができるものがあると述べ、こういうことを続けて書いています。芝居、寄席、浄瑠璃、読本などはサムライの物語が主だった題材で、農民や町人たちは一日の仕事を終えた夜に義経と弁慶、あるいは勇敢な蘇我兄弟などの物語を語りあきることなく繰り返す。またある時は信長や秀吉の戦場での勇敢な話に鼓舞され、一日の疲れを忘れて目を輝かせる・・。このようにサムライは日本民族全体の「美しき理想」となった。


葉隠のなかではこういうことが書かれてあります。
御代々の殿様、悪人之無く、鈍智これ無く、日本の大名に二三とさがらせられしことは終にこれ無く候。
−中略−又御国の者他方に差し出されず、他方のもの入れ置かれず、浪人仰せ付けられ候ても御国内へ召し置かれ、切腹仰せ付けられし者の子孫も御国内へ召し置かれ、
主従契り深き御家に不思議に生まれ出で、
御被官は申すに及ばず町人百姓に至るまで
御譜代相伝の御深恩申し尽されざることどもに候。されば斯様の儀を存じ当り、何卒御恩報じにまかり立つべくとの覚悟に胸を極め、御懇に召し仕はれ候ときは、弥私なく奉公仕り、浪人切腹仰せ付けられ候とも、一つの御奉公と存じ、山の奥よりも、土の下よりも、生々世々、
御家を歎き奉る心入れ、是れ鍋島侍の覚悟の要門、即ち我れ等が骨髄にて候

ここに書かれてあるように、藩主あるいは将軍が本当に優れていれば世の中はうまく治まるでしょうが、なかにはその器ではない人物が藩主や将軍に納まることもあるわけです。そういった場合には悲劇となるわけですが、輪中工事で責任を取って自殺した薩摩藩士は、理不尽な幕府の権力に対して無言の抵抗をしたとも云えるわけです。





琵琶という楽器には仏教伝来と共に伝わってきたとされる盲僧琵琶、雅楽で使われる楽琵琶、平曲を語るときに使われる平家琵琶、、平家琵琶と盲僧琵琶を融合させたとも云える薩摩琵琶、筑前琵琶があります。筑前琵琶は明治時代になって盲僧琵琶から派生した新しいものだそうです。
薩摩琵琶は鎌倉に幕府が置かれたときに
(鎌倉時代)、島津忠久が征夷大将軍 源頼朝の命令で薩摩の地頭となって下向する際に、宝山検校という盲僧を伴って行き保護奨励したのが始まりということになっています。おそらく、それまでの九州の地には飛鳥・奈良時代から活動していた盲僧たちにより、琵琶は広まっていたと思われるのですが、薩摩ではそういった盲僧琵琶が薩摩藩公認となっていたと云ってもいいのでしょう。それはちょうど江戸時代の幕府が、琵琶の伴奏で平家詞曲を語る盲人たちを保護・奨励したのと同じことだったのではないでしょうか。
因みに、薩摩琵琶が現在のような形態になったのは室町時代の16世紀の半ばという説と、江戸時代中期、あるいは明治時代になってからという説があります。室町時代の藩主島津忠良は文武両道を奨励していて、盲僧長寿院という琵琶の名手が奏でる曲に感動し、この曲に詩歌を唱和することによって青少年の士気高揚、徳育情操教育に用いることを思い付いたということです。それは後代になっても受け継がれ、その間楽器が改造され、新たに作詞、作曲もなされ、また、優れた奏者を優遇し才能を伸ばすことを奨励するなどしたそうです。
こうした薩摩琵琶の歴史の流れの中で、先に述べたように、江戸時代の中頃の宝暦年間に幕府によって輪中工事を命じられるということが起こったわけです。それから約80年後、「平家琵琶にみる伝承と文化」によると、薩摩藩主の島津 斉興
しまづ なりおきとその後代、息子の斉彬なりあきらは清川勾当を招いて平曲を語らせ、斉彬は琵琶の材料である紫檀を下賜したということです。その材料を使って中山希明という作者が琵琶を作り、それに斉彬が「五月雨さみだれ」という銘を付けた。この時、斉彬、あるいは父斉興に80数年前の薩摩藩の苦悶の記憶が受け継がれていたかどうかは判りませんが、輪中が受ける五月雨(梅雨の雨)の被害を避けるための工事を、薩摩藩が命じられ、それによって受けた打撃と藩士80数名の無言の叫び、これらが斉彬の体の、あるいは心のどこかで響いていた、と想像するのは行き過ぎでしょうか・・。

          

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