小林秀雄について

思想家の小林秀雄について少し・・
小林秀雄は日本での文芸評論のさきがけとなった人物ですが、ちょっとインターネットで検索したら、膨大な量のサイトで取り上げられているので、わざわざここで書かなくても、とも思うわけですが、まあ、自分は自分で感じたことを書いておこうと、そう思います。
小林秀雄は、誰かある人物のことを書くときは、その人が物書き(文学者)ならば、少なくとも全集くらいは目を通してからにするべきで、それがその人に対する礼儀であるということを若い人に言い、自らも実践した人です。ですから、私もここでこういう風に書くに際しては、その最低限の礼儀はわきまえて臨んでおります。
世間では、小林秀雄の本業は文芸評論家ということになっておりますが、私から言わせてもらうと、この人は骨董屋ですね。本人もそう思っていたんじゃないですか。第二次世界大戦前後は書くことはせず、骨董の、特に焼き物の売り買いばかりしていた。
その世界の優れた目利きでもあったわけで、こうした目を通して古巣の文学界を眺めてみると、なんと雑品が多いことか、と改めて驚いたのではないでしょうか。そのことは、その後の言動から見て取れます。小林秀雄の直弟子と目される福田恆存は終戦直後小林秀雄と会った際「著述などというつまらない仕事を止めて美術商をやりなさい」と言われているのです。また、文学者の井伏鱒二と再会したときに、「俺はここのところずっと骨董いじりばかりやっていた、おかげで文学のことがよく判ったよ・・」ともらしているのですが、これを聞いて井伏鱒二は、後に随想で「これは端倪すべからざることである」と感嘆しているのです。
小林秀雄の骨董の師匠は青山二郎という、まあこの人物は一口では表現できないような異才の持ち主なのですが、焼き物の世界では天才と当時から誰もが認めていた、そういった一面
(鑑識眼)も持っていた人物です。この青山二郎が小林秀雄の焼き物修行の過程を書いている件はたいへん興味深いのです。
どの分野でもこういったことはあるのでしょうが、焼き物の鑑識についても、最初は何がなんだか判らないが、少しずつ感じるようになる。そして見えるようになり、判るようになる。最初の感じる段階では、なんとなくの世界だから、言葉にならない。ところが見えるようになり、判ってくると、それを説明することができる。
「小林は、感じるようになったときは、それがなんとももどかしいようで苦しんでいたが、見えるようになると、後は頭で判るようになるので、こうなると小林の得意分野である」、と青山二郎はその頃のことを述懐しているのです。



小林秀雄の文壇デビュー作は、「様々なる意匠」というものですが、これは当時の懸賞論文に出したもので、結果は第二席となったものの、文壇に大きな波紋を広げたことは容易に想像できます。
何しろ、当時の文壇をこっぴどくやっつけているのですから。特に、当時台頭していたマルクス主義文学というものに対しては厳しく批判している。また、その頃現われた文芸評論家という人種の言動に対しても、疑問を投げかけているのですが、そういう文芸批評家を批評する立場に当の本人が立たなければならなかったところが悲劇なのか喜劇なのか、ともあれ、このデビュー作でそういう立場に立ってしまったのです。1929年小林秀雄27歳のことでした。
それまでにも20歳の頃から小説などを書いていましたが、これなどを読むと、小林秀雄の感受性がよく伝わってくるのです。こういったものは、人間、年を取っても変わらないもので、これは小林秀雄の文章の元になっているものです。それは、後年フランクのシンフォニーのレコードを聴いて吐き気を催すほどの感動をしたり、ゴッホの「カラスのいる麦畑」の複製画を見て、立っていられないほどの衝撃を受けたりと、事あるごとに小林秀雄の肉体を襲うのです。この異常なほどの感受性、感動が小林秀雄の文の元、出発点になっているのです。
その感動は当時の文壇のふがいなさに対する怒りとなる場合もあり、それは、普段の寡黙と理性による抑制が、酒を飲むことによって解き放たれると、同席の飲み仲間の誰彼となく矛先が向かい、これによって泣かされた者は数知れないということです。誰彼となくと書きましたが、これは正確ではなく、この矛先は才能のある者、あるいは小林自身が認めている人物にしか向かわなかった。これは旧来の友である河上徹太郎が証言していることです。
この小林秀雄の矛先は自身の敬愛する文学者の正宗白鳥にも向かい、小林・白鳥論争は公の活字にもなって世間を賑わせたのですが、これは小林秀雄の正宗白鳥に対する大きな期待の裏返しでもあったわけです。当然のことながら、大人気ない喧嘩とは程遠いもので、小林秀雄は当時創元社という出版社の顧問をしていたのですが、正宗白鳥の本は進んで出版していたのです。
このことはバルザックとスタンダールの論争を彷彿とさせ、微笑ましいものだったのですね。




小林秀雄の鋭い舌鋒で泣かされた文学者は多いのですが、その小林秀雄をやんわりととっちめるのが青山二郎でありました。
骨董の師匠の青山二郎との付き合いは20代の頃からだということですが、小林秀雄が初めて焼き物を買うのは38歳の頃で、この時からが焼き物に関しての師弟関係の始まりでした。装丁家として名を成していた青山二郎も、その後、文を書くようになり、そのときは師弟関係が入れ替わるわけですが、この微妙なバランスにその後破綻がくることになります。それは、小林秀雄と青山二郎の生態の違いだったのですが、そこのところに両人とも、とくに青山二郎は気付くことがなかった。
青山二郎は焼き物が本体で、それで一生を過ごしたわけですが、小林秀雄にとっては、本人も言っているようにそれは単なる狐つきだったわけです。だからキツネが取れてしまうと、小林秀雄は元に戻った。ところが、本人は元に戻ったと思っていたのが、実は脱皮をしていたのですね。ここのところに青山二郎は気が付かなかった。言い方を代えれば、青山二郎がバッタのように子供の時から同じ格好をしていたのに対し、小林秀雄は蝶のように完全変態をしていたのです。蝶になって空を飛ぼうとしているのを、地面に引き戻そうとしたバッタは、やはり疎んじられる。これは仕方がないことでした。



参考までに、この絵は青山二郎が50歳を過ぎて書き始めた油絵です。子供の頃に西洋画は習ったことがあるようですが、改めてじっくりと描き始めたのは50歳を過ぎてからのようです。この絵を見ると青山二郎の根っこのところの感性がよく伝わってきます。純粋そのものです。晩年痴呆気味になった頃、ライターの炎を「きれいだろ」と言ってじっと見つめていたときの感受性そのものです。

さて、小林秀雄が「近代絵画」という感想を「新潮」に連載を始めたのが昭和29年
(1954年)となっております。52歳のときです。これはモネ、セザンヌ、ゴッホ、ピカソといった、当時日本で盛んに紹介されていた西洋の画家たちの絵についての評論です。その前には、昭和23年から「ゴッホの手紙」を書いており、合せて「雪舟」を発表するなど、絵についての文が多く書かれた時期であったのですが、この頃青山二郎と対談をしていて、それが活字になったりもしています。その時は、またもや青山二郎が小林秀雄をとっちめているのですが、このときの青山二郎の指摘は的確で、まったく驚いてしまうのです。小林の文章だと画家のことが主要な問題になって、何か終いには画は要らないというふうになる、という一言に小林秀雄も返す言葉がなかったようです。普段の話では小林が絵を見たときの感動がよく伝わってくるのに、どうして文になると、それがぽっと取れてしまうのかな、と追い討ちをかけると、小林秀雄は、話すことと書くことは違うからなあと反論するのですが、青山二郎は許してくれません。だから悪くすると、お茶を習うから馬鹿なお茶碗が見えてくるというふうに、あの文章を読むから絵が見えてくるというやつが出てくるよ、と警告するのです。




人間は何かに感動したとき、それを人に伝えたくなるという習性を持っている。と同時にそういう話を聞きたがるという習性も備えている。それは和歌となったり、物語になったり、芝居になったりと、人に伝えるときに、退屈せずに聞いてもらう、あるいは知ってもらうために様々に工夫されてきた。おしゃべりだってそうである。これこれこういうことを体験した、こんなことがあったということを人に伝える。それを観察してみると、そのしゃべり方が巧みな者とそうでない者がいる、ということに気付く。落語家がそれをやれば金を稼ぐことがてきる。だが、落語家にも下手な落語家と名人がいる。和歌だってそうである。万葉集、古今集、新古今集と時代の節目節目に優れた歌が選ばれてきた。この場合、まずこのときの選者を選ばなければならない。サル山のボスは命がけの喧嘩で勝った方がなる。では和歌の選者はどういう喧嘩をしてきたのか。落語の名人はどんな喧嘩をしてきたのか。
音楽を聞いて感動した。絵を見て感動した。習性がむずむずとしてくる。詩人は詩をつくる。講談師だったら熱く語る、世阿弥だったら能を舞うだろう。文章にする輩も出てくるだろう。同じことを語っても、あるいは文に書いても、人によって感動する場合とそうでない場合があるのは、考えてみれば不思議なことである。私のサインなんか誰もいらないだろうが、イチローのサインだったら誰でも欲しい。
小林秀雄が懸賞論文に出したものが第二席に選ばれた。なぜ選ばれたのか。その後、小林秀雄が書いたものは本になって売れた。なぜ売れたのだろう。動物園のパンダを何度も見に行く者と、小林秀雄の文を何度も読む者に違いはあるのだろうか。小林秀雄がゴッホの絵をどういう風に見たのか知りたくなるのは、音楽を聞きたくなるのと、イチロー選手のプレーを見たくなる、あるいはパンダを見たくなるのと、どれほどの違いがあるのか。




上の文は青山二郎の思考回路をちょっと拝借したのですが、言いたいことは私の考えなのです。これを書いてみて、文体を真似るということはどういうことだろう、と考え込んでしまったのです。たとえば、名刀の正宗に紛れている刀があるとする。実際に作った本人は正宗ではない、しかし多くの刀の目利きに気付くことを許さなかった。刀というものは、姿、形で時代が判り、地鉄で時代と作られた地域が判る、そして刃文で流派と作者が判る。だから、正宗と同じような刀を作ることができるのは、正宗の弟子筋しか考えられないのですが、果たしてそのとおりのようです。これに付随して、刀の見所というものはすべて目に見えています。にもかかわらず、初めて刀を見る者と目利きとは同じものを見ているのにその判断に雲泥の差があるということはこれはどういことだろう。
また、先に述べた刀の見所は知識として知っているだけでは身に付かない。目利きといわれる人は例外なく自分自身で刀を所有している。つまり身銭を切って手に入れているわけです。そうしなければ鑑識眼というものは身に付かない。これは焼き物の目利きである青山二郎も言っていることです。こういったことは、哲学者にも興味のあるところのようで、古今東西の哲学者が取り上げている問題でもあります。日本では、日本での哲学のさきがけとも言える西田幾多郎が詳しく述べていますが、彼はこのことを当為と概念付けて論じています。これは、たとえば音楽家なら実際に曲を作るとか、演奏をするという行為といってもいいだろうし、家を建てる、あるいは船を造るという行為といったものでもあります。つまり机上の空論ではないということですが、たとえば船を造る場合、まず設計図というものが描かれます。設計された図面上の船というものは、設計者が見ているものと、実際に造船に携わる者が見ているものとは違うでしょう。ただし船のような実用物で設計者と造船者が分業されているようなものは、ある程度の共通認識が成立しているだろうから、例えが不十分であるかもしれませんが、それでもやはり認識のズレというものは存在するはずです。
これを美術評論家と画商あるいはコレクターと置き換えてみることもできます。美術評論家というものは、ほとんどは、どこそこの美術館に所蔵されている名画を解説・説明することを専らとしていますが、このことでも小林秀雄と正宗白鳥はやりあっているのです。
正宗白鳥は一時期美術記者をしていたことがあって、そのことが話題になったとき、正宗さんは絵はお好きですか、と小林秀雄が尋ねるのです。そうすると、ああ、むかし美術記者を七年もやっていたのでね、ある点で絵だって好きだよ。でも絵をお買いにはならんでしょう。買ったりなんかしやしない。好きなら買いますよ。買う金もないし・・。金なんか都合しますよ、やっぱりお好きじゃないのさ。といったやりとりをしているのですが、小林秀雄はここに正宗白鳥のすべてを見て取っているのです。
正宗白鳥は当時、批評的文学者として世に知られていたわけですが、こういう文学者はそれまで存在していなかったのです。そういう稀有な存在だったのですが、正宗白鳥の小説は一部の根強い愛好家はいたものの、ほとんど売れなかった。それでも当時、創元社という出版社の顧問だった小林秀雄は、正宗白鳥の小説を出版し続けたのです。




作家の坂口安吾は小林秀雄が中心となって立ち上げられた同人雑誌「作品」のメンバ−でありましたが、その後小林秀雄らからは離れていきます。そして昭和23年に「教祖の文学」という文を発表するのですが、これは小林秀雄を正面から批判したものでした。
小林秀雄が骨董に興味を持って、それに熱中しているのを、文学から逃げていると断じているものですが、これについて小林秀雄は反論しなかった。もっとも坂口安吾のこの手厳しい批判は小林秀雄を尊敬しているが故に出ているものなのですが、この安吾の批判に対して青山二郎が反論を出しているのです。
まず、坂口安吾の言い分に耳を傾けてみると、花鳥風月を友とし、骨董をなぜまわして充ち足りる人には、人間の業と争う文学は無縁のものだ、と言うのですね。この坂口安吾の二つの独断が坂口安吾然としていて心地よく、またこれが安吾文学のエッセンスでもあるわけですが、ここのところの誤解、小林秀雄や青山二郎から観ての誤解は、同年昭和23年に坂口安吾と小林秀雄が対談をすることで氷解することになります。この対談は読んでいてたいへん美しく、両人の潔さ、素直さ、正直さに感動してしまうほどのものなのです。これはもう、一つの文学作品といってもいいくらいのものですね。たいへんに美しい。
骨董というものと徹底的に付き合うということは、経済的にも精神的にも地獄だった、それに加え骨董の世界というのは、要するに鑑賞の世界だから、美を創り出す世界じゃないから、そのことをどうしても意識せざるを得ない。この意識は実に苦痛なものだ。これも地獄だ。それがいやなら美学の先生になりゃいいんだ。と小林秀雄は述懐しているのですが、それに対し、坂口安吾は、小林さんの言うことは一種の惚れる世界じゃないですか。そうしてそれが文学じゃなくてというのは、つまり生き方の暗示を受けるためじゃなくて、骨董品なんだ。骨董は、つまり、それ自身が生き方だ。しかも文学よりもう一つ上のものだと小林さんは考えてるんじゃないかな、と矛先を向けるのですが、これに対し小林秀雄は、いや、決してそうは考えていない、美術や音楽は、僕に文学的な、余りに文学的な考えの誤りを教えてくれるだけなのだ。文学というものは文学者が考えているより、実は遥かに文学的ではない。そういうことが骨董を通じて判ったと言うのですね。
公定価格のない世界だからね。標準というもののない世界じゃないですか。と安吾が言うと、小林は、美の鑑賞には標準はない、美を創る人だけが標準を持ちます。と言葉を重ねるのです。




坂口安吾の小林秀雄批判の文が発表されて3年ほど後に、青山二郎が書いた「小林秀雄と30年」という文が芸術新潮誌に発表されるのですが、これは、安吾の「教祖の文学」が発表されてから、美術を語る小林秀雄に対し、骨董に逃避した男が近頃は素人の美術論か・・という文学畑からの冷やかしの声がしきりとなり、絵画論が出版されるようになると、こんどは文学者は誰も付いて来れなくなり声さえ出なくなってしまったのを見て、ついに堪忍袋の緒が切れたのか、堪忍袋を作ったのか、どちらか青山二郎の場合は判断が難しいのですが、ともあれ、そうなってしまったのです。しかし、そうはなっても小林秀雄の読者は専門家のご意見とは関係なくその文を面白がって読んでいたのですが、ここのところが、文学の専門家は妬ましかったのかもしれない。そういうさもしさも、青山二郎はガマンができなかったのではないでしょうか。
「小林秀雄と30年」が書かれた頃には他に「美の問題」、「小林のスタイル」という文を発表していますが、これらの文は青山二郎の美に対する態度が如実に現われていて小気味よく読むことができます。

「小林秀雄と30年」という文は、骨董修行を始めた小林秀雄を青山二郎が師匠としてどのようにして導いたかが、詳しく語られているのですが、これは、それを坂口安吾に読ませてやりたいという意識は当然あったのでしょうが、青山の文は、そんなことぁ勝手にしてくれという風でもあり、ちらちらと横目で安吾を見ているようでもあり、この風合いは絶妙なのです。その語り口と、書かれてある内容は対角線の端のようにかけ離れているのに驚くのですが、そこに書かれてある本質は鋭く、深いのです。
「ほんの一寸した甲乙にすぎないその大事な甲乙は頭では判断できない」・・青山二郎がこの言葉を発するのに費やした元手が、どれほど膨大なものであるかを想像してみる人は少ないのです。




小林秀雄や青山二郎は見れば判るような骨董品には興味がなかった。見れば判る骨董品は美術館に収まっていれば十分で、そういった誰が見ても判るものの中には一流品もあるだろうが、彼らは超一流品にしか興味がなかった。そういったものは何気ない姿をしているので見過ごす人が多いが、そういった眼力で小林秀雄は絵や音楽を判断したし、もちろん専門の文学でもそれは同じだった。刀や鍔、焼き物や美術品に一流、二流のものがあるように音楽や絵にもそれがある。当然文学にもある。小林秀雄が取り上げた芸術家や文学者は、骨董品と同じように超一流品だった。そして、判っていることは書く必要はない、とそれに接するやり方も骨董品と同じだった。
人間存在の不思議、また、なぜ芸術というものが存在するのか、美といものが存在するのか、と、こういった、人間が数千年来考えあぐねてきた根本問題に、小林秀雄は真正面からぶつかっていったのですが、その切り口は深く、的確だった。
それは芸術に携わる者の羅針盤とでもいえるほどのものなのですが、それをどの程度読み解くことができるかということは、読む側の資質にかかっているので、読む者にとって様々に汲み取ることができる。そして、小林秀雄が深く切り込んだ切り口を見ることができれば、それを応用することもできる。小林秀雄の美術論や芸術論は彼の文学であると断言したのは青山二郎でありますが、青山二郎の、人の作ったものを見てその人物の本質を一目で掴む才能は焼き物を判断することと何ら変わりはなかった。それと同様に人間そのものも判断した。人間の姿、しぐさ、目つき、立ち居振る舞いといったものは、これもひとつの作品であり、それにはその人間の本質が現われている。そういったことは当の本人には判らないところが面白いところでもあるのですが、自分の後姿をなんとか見ようとしている格好ほどおかしなものはない、ということは青山二郎には十分すぎるほど判っていたのです。



小林秀雄晩年の大著「本居宣長」は62歳(1965年)から連載が始められ、75歳(1977年)のときに書き終えています。この著作についても執筆中はもちろん、単行本として刊行されてからも様々な人によって意見が出されていますが、そういったことはさておいて、私が感じていることは、当時、日本に押し寄せていた社会主義、共産主義というイデオロギー、それから高度成長をし始めた日本社会に生まれつつあった歪みに対し警鐘を鳴らした。このことに尽きると思うのです。
社会・共産主義という唯物論主義者が、無神論を標榜することでインテリ面をする風潮を特に小林秀雄は嫌った。そういう似非一流品は、骨董のそれを判断するよりも彼にとってはるかに易しいことだったろうことは容易に想像できるのです。
これは、本居宣長が当時の官学者たちが漢心
(からごころ)、つまり当時の中国の思想を諸手を挙げて受け入れているのに警鐘を鳴らしたのと同じです。ちょっと待て、揃いも揃ってそっちの方向に行くのは危険ではないのか。その勢いを抑えるには中途半端なことでは通じないのです。それが宣長の態度となった。細かいことは間違っているかもしれない、だが、それよりもブレーキが先だ。ということだったと思うのです。小林秀雄もそういった時代の気配を敏感に感じ取って宣長を引き合いに出した。歴史は繰り返す、同じ過ちを犯すことは愚かなことである、そういうことを汲み取った人はどれだけいたのでしょうか・・。
社会主義、共産主義の大きな実験はソビエト連邦の崩壊で失敗に終わりました。それを日本に取り入れ、喧伝し、押し進めた当時のインテリゲンチャ、あるいは政治家はどれだけ責任を取ったのでしょうか。
社会の流れを決めていくのが政治家、あるいは官僚とするならば、民主主義の中であるなら、その流れについて警鐘を鳴らす、あるいは軌道を修正する立場の者が必要になってくる。これは野党だけでは心もとない、そこで政治家以外の立場の者というのは、当時では新聞社などメディアがその任を果たしていたが、文学者、あるいは文筆家もそういう声を発していた。小林秀雄の後を継いだかたちの福田恒存
(つねあり)はその代表的人物ですが、他には数学者の岡潔が、あるいは漫画家の手塚治虫がそうでした。美術界では州之内徹がそうであったといってもいい。当時の自称左翼の文筆家はどういう責任を取ったのでしょうか・・。
それが、時代が下ると、そういった役割を果たす者がテレビ・タレントになっていき、同時に専門の評論家も多く現われるようになりました。そういった中で、たとえばバブル崩壊の引き金となるような口添えをしたあるニュース番組の司会者は、何の責任も取っていませんね。こういう弊害も当然出てくるでしょうが、特に現在では新聞、テレビメディアは時の権力者です。それだけに責任は大きいはず。
ところが中の人物は責任逃ればかりをする。こういうことでは、あまりにも情けないと思うのです。自覚が足りなさ過ぎる。

さて、ここで、以前の随想で述べた、ケン・ジョセフ氏の著書
失われたアイデンティティ」をもう一度引き合いに出す必要があるようです。この中で著者は、日本人は日本人としてのプライドを持つべきだと言い、又、日本だけでなく、アジア諸国が近代西洋文明の影響で不幸な歴史を繰り返すしかなかったことから脱却してほしい、と、そう力説しています。これは本居宣長が主張していたことと、何ら変わりがないのです。
小林秀雄の著書「本居宣長」について渡部昇一氏はたいへん感心していて、氏の著書「新常識主義のすすめ」に収められている「古事記・宣長・小林秀雄」では、宣長は古事記と長年親しく交わることで(古事記伝を書き上げるのに34年かかっている)古事記のオカルト性に気付き、小林秀雄が宣長の古事記伝に長年親しく交わることで(本居宣長を書き上げるのに11年かかっている)気付いたことはまさにそのことである、と断言しています。小林秀雄の著書「本居宣長」が出版された後、多くの知識人が感想を寄せていますが、渡部昇一氏はどれも的外れと感じた、と口にされています。(YouTube動画参照)



付記として

本の整理をしていたら懐かしいものが出てきたので思わず長い時間見入ってしまった・・。それは1969年
(昭和44年)に毎日新聞社主催で行われた画家熊谷守一展の図録で、これはいつ手に入れたのかも忘れてしまっているのですが、この図録の前書きは、今は亡き数学者の岡潔(おか きよし)氏が書いていて、見入ってしまったのは、実はこの前書きの方なのです。直筆のまま印刷されていて、この岡さんの字がまたなんともいい味わいで、熊谷守一のお株を奪っている感があるのです。
それはともかく、この時代の偉大な人物の言葉を直筆で読んでみると、また一味違った感慨というものが湧いてきます。岡潔という人は、専門は数学なのですが、日本人の情操教育というものにも大きな関心があったようで、昭和30年代頃から日本の行く末を案じ、警鐘を鳴らし続けた人です。ところが、この警鐘の意味とその度合いを本当に理解し、それを実行に移した人はいかほどのものだったのでしょうか・・。当時は、他にも小林秀雄、福田恒存といった所謂文化人といわれる人たちが同様に警鐘を鳴らしていたわけですが、いま振り返るとどうだったのでしょう・・。こういったことは我々凡人には計るすべさえも判らないわけですが、今こうして、日本人よ、しっかりせよ、という風潮が大きくなりつつあるというのは、何らかの効果、あるいは先人たちの意思を受け継いだ人たちの尽力というものがあったのかもしれない。そう信じたいところです。
さて、1965年に岡潔と小林秀雄が対談をしていて、その内容は多岐にわたっているわけですが、共通している事は、人間いかにあるべきか、いかに生きるべきか、ということです。それから、芸術の根本問題にも触れられていて、このあたりは我々物を作る者には大変に参考になるのです。こういったことは、古くなるということはありませんね。人間にとっての根本問題は現代人も2500年前のソクラテスの時代の人々も同じで、進歩していると思っているのは錯覚か、思いあがりでしかなのです。そういうことを、いつの時代にも振り返ってみる必要がある、そういうことを改めて痛感させられるのです。
小林秀雄といえば、私の世代ならば少なからず影響を受けていると思いますが、この思想家の一貫したテ−マは、人間存在の不思議と言ってしまっていいでしょう。なかでも天才的な人物と、そういった人たちが作り上げたもの、あるいは残したものにたいへん関心があった。言い換えれば職人気質といってもいいです。27歳のときの文壇デビュ−のきっかけとなった「様々なる意匠」という評論から、60代から70代にかけて書かれた大著「本居宣長」まで、それは全く変わっていないのです。



このセザンヌの絵は、小林秀雄が晩年、知り合いの画廊から借りて自宅に掛けていたものらしい。

余談になりますが、小林秀雄は昭和30年代にトヨタの自動車工場を見学して社長の話を聞き、トヨタの社長はすごい人物だ、いまにトヨタは世界一の会社になると言っているのですね。今そのとおりになっているのですが、どうして小林秀雄はそんなことが分ったのでしょうか。そのことに大変興味が湧くのです。そのときの直感の対象となったものはいったい何だったのでしょうか。
そういった直感で小林秀雄という人は人物も芸術も判断していった。そして一流のものが、どうしてそうなのか追求したくて仕方がないといった具合なのです。まさに職人です。

先にあげた数学者の岡潔との対談では、画家、それから文学者の作品のレベルについても話題になっていますが、その中の岡潔氏の発言などは観点がひじょうに興味深いのです。数学や科学といえども人間の感情というものが基になっていなければならない、という話から、つぎのようなことが述べられます。「現在の画家の中には、たとえば女性のモデルを女性として尊重しないような絵かきが多い。そういう人の絵は人類にとってプラスとは考えられない。すべてのことが人本然の情緒というものの同感なしには存在し得ないということを認めなくてはなりません。女性のモデルを女性としてよりも、けもの的に取り扱う。そういう状態でよい絵が描けたら、絵について考え直さなければいけないが、よい絵は描けていない。そのことに気付かないということはいけない状態です。」
それから小林氏と岡氏が同じように感じていることのひとつに、こういったことがあります。「おもしろい絵ほどくたびれるという傾向がある。人をくたびれさせるものがあります。物というものは、人をくたびれさせるはずがない。」と小林氏が言うと、岡氏も「そうなんですよ、芸術はくたびれを治すもので、くたびれさせるものではないのです。」と同調しているのです。このことは、現代の言論人では渡部昇一氏が同じようなことを述べています。
文学者ジェイムス・ジョイス、作曲家のシェ−ンベルクが70年前に行ったことは、このことに目をつぶったのか、見ることを忘れていたのか分かりませんが、人間の感情、情緒を抜きにしては芸術の存在の意義はないのです。こういったことに新しいも古いもないのです。そのことを忘れている芸術家があまりにも多いのではないですか?。芸術家である前に職人であるべきはずなのです。最初に小林秀雄は骨董屋である、と言ったのもそういう意味もあるのです。

岡潔はフランスでセザンヌの絵を見て疑問を抱き、そのことが少し判るのに20年かかったと述懐しています。そこで気が付いたことは、人は生後三ヵ年が”童心の季節”であり、ここでその人の中核は皆出来てしまう。それ以後のものは言わば着物である。こんなものを着ているから判らないのである。ということで、この着物を脱いでしまって裸になろうと決心するわけです。そしてそれからまた20年かかって、ようやく裸になることができたということです。そうすると、一切が一遍にわかった。

セザンヌの絵を見ていると淋しくなるのは、彼は着物を着たまま描いているからである。芭蕉一門が僅か二・三句の名句を得るために易々と一生涯を賭けることができたのは、裸になってやっているからである。裸になることが出来さえすれば、そこが高天原
(たかまがはら)である。見るもの聞くもの皆楽しいのである。疑いなんか残らないのである。その後、私は楽しい画に色々出合った。デュフィ−、ボナ−ル、富岡鉄斎、それに熊谷守一。然し熊谷さん以外の画は、楽しいことは楽しいが一分の疑いが残るのである。熊谷さんの画にはそれが全くない。高天原そのものなのである。ということなのですが、このことは芸術の根本問題なのです。
洋の東西を問わず、どの分野の芸術も一流のものにはこの高天原が現れています。それを得るために、皆苦労していると言っても過言ではありません。私はこれをザックリとした味わいと言ったりしていますが、童心の世界とも言えるのでしょうか・・。
これは、出そうとしても出せるものではない、というところが難しいところなのです。自分の個性を現すのも同様に難しいことなのですが、高天原を現すというのはその上の段階でもあるのです。
言い換えれば無私を得るということです。そのためには技術的なことは克服していなければならない。一見何も考えていないようなもの、作為が全くないもの、何気ないもの。これを得るのに熊谷守一も40年以上かかっています。
ミケランジェロも晩年、80歳を過ぎてからこんなことを言っています。ようやく技術的なことが克服できそうなのに、もうこの世を去らなければならない・・

                  
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