漢代の銅鏡文字について

文字が鋳込まれている銅鏡(参照)を手に入れたので、この文字を解読しているのですが、これがなかなか難解なのです。お判りの方はぜひご教示お願いいたします。




まず上の画像の文字の最上段右端の ですが、
これは漢時代の銅鏡ですから、文字どうり漢字の「清」だと思われます。

次にその左の は、これも漢字の「光」でしょう。

その左の は、よく似たものは篆文の「心」、それから甲骨文字の「皿」ですが、違うといえば違います。

次に上から二段目の三つは同じ文字 ですが、これは、この銅鏡18文字の内、5字含まれています。篆書の「天」、あるいは甲骨文字の「寅」が似ているのですが、厳密に見れば違っています。「矢」も似ています・・
この文字は、銅鏡の周りに配置された文字と文字の隙間を埋めるための記号とも思えます。このような例は漢時代の同様の銅鏡に見られますが、

たとえば この文字は記号ともとれますが、ホツマ文字にもあるのです。古代文字は記号でもあり、文字でもあるので、その区別はないに等しいとも云えます。

また、縄文土器    や

弥生土器にも見られ 、フェニキア文字には、渦の巻き方が逆のものがあります。

次に上から三段目右端の ですが、これもよく判りません。

同様の文字が鋳込まれた別の銅鏡では

となっています。似ているものとしては、出雲文字の「ヤ・也」、カローシュティ文字の「チ・千」。

その左の は何か動物を表す文字でしょうか、よく判りません。龍でしょうか、獅子でしょうか・・。

その左の は金文、篆書の「不」だと思われます。

四段目の右端 は干支の「巳・ヘビ」だと思われます。
これはサンカ文字にもあります。

次の は判然としません。「夫」でしょうか。

次の は単純ですが、よく判りません。甲骨文字の「亡」が似ていますが、厳密に見れば違っています。

下から二段目中央 は、「日一」か「旦」だと思われます。

他の銅鏡では   となっており「日」です。

次の は「穴」でしょうか、「内」でしょうか・・。

最下段右端の は他の銅鏡では となっています。
これは川崎真治氏の古代文字の解説に挙げられていると金文の

に似ています。右はシュメール語の「シュ」で手という意味があり、左は同じくシュメール語で「マフ」で目という意味があるそうで、シュ・マフ(獅子)のことだということです。ですが、手許にある私の字典では金文の「手」に該当するものがありません。

手許の字典では、金文の「手」は こうなっていますが、

これは、 の右側のものに似ているといえば似ています。

次の は中国の文字にはなく、日本のサンカ文字の「コ」が該当します。また、豊国文字の「ウ・生」も同様ですが、中央の点が「。」になっています。

                        参照 古代文字資料館  





この銅鏡の文字で、中国の文字に該当しない文字が日本の古代文字に似ているというのは興味深いところです。
それらを取り上げてみますと、まず「九鬼文書
くかみもんじょ」の古代文字八種の内、「カスガ文字」。それから、阿波国(四国・徳島県)大宮八幡に伝わる「阿波文字」。江戸時代初期の神道家・吉川惟足よしかわ これたりが伝えたとされる「コレタリ文字」。神字日文伝に載せられている「中臣文字なかとみもじ」。竹内文書に用いられている「トヨノ文字」。南北朝時代の南朝直系の旧家に伝わるとされる「南朝伝神代文字」。島根県にある出雲大社の近くにある書島ふみしまの石窟に刻まれていたとされる「出雲文字」。それから、北海道のアイヌによって伝統的に受け継がれてきた文字あるいは記号の内、アイヌ文字以外のものである「日本紙朱字」、「帯状朱字(木皮朱字)」、「太刀吊朱字」と云われるものがあります。
上記の文字を確認できるサイトを紹介しておきます。



この文字が日本のサンカ文字の「コ」に該当するということに、中国・漢時代(紀元前202年〜紀元後220年)と日本列島の関係を垣間見ることができます。
サンカ文字のサンカは山窩のことで、一般に「山の民」とも云われていますが、縄文時代後期頃に日本に渡って来た民族とも云われています。古代から近代に至るまで時の権力者に服従せず、綿々と自分たちの掟のもとに日本各地で集団生活を営んできているとされていますが、私が生まれ育った福岡県北部では彼らのことを「サザンカさん」と呼んでいました。
この謂わば一民族の間で古代から伝えられている文字が「サンカ文字」ということですが、この文字はカローシュティー文字ブラーフミー文字を起源としているようです。サンカ文字とよく似ている豊国文字も同じ起源だということで、鹿島f氏によると、ブラーフミー文字は元々はフェニキア人の文字で、カローシュティ文字はペルシャからインドのマガダに伝わったものだということです。マガダ王国については以前の随想で述べたことがありますが、このマガダ諸族の山窩が日本の山窩の大元であるようです。鹿島氏によると、マガダ諸族の山窩が熊襲系の中にあって、その中のカーストに穢多
えたの先祖とされる白丁隼人があったということで、それを通じて物部族にこの文字が伝わったのだろうとしています。
ということは、時代としては古く見積もった場合、紀元前600年頃となるわけです。そうすると、仏教が中国を通じて日本に伝わったとされる遥か以前に、文字が日本に入ってきている可能性もあるということになります。つまり、紀元後の後漢時代の銅鏡に鋳込まれた文字が日本にも存在していて、それが中国よりも古い時代から存在していたこともあり得ることになります。
このことは、青銅発祥の地とされているオリエントよりも古い時代に、東南アジアのタイのバンチェンに青銅が存在していた、ということと同じような出来事とも云えます。ですから、青銅文化が東南アジアからオリエントに伝わったように、古代の文字文化がインドから東南アジア経由で日本に達し、それが朝鮮半島を経て中国に伝わる、という文化の流れがあったということも否定できないのではないでしょうか。
また、その流れに乗じて他の文化も流れて行った可能性もあります。たとえばドルメンや饕餮紋
(トーテツもん)、あるいは勾玉もそれに含まれていたかもしれません。






この文字に似たものが見つかりました。

これがそうですが、この文字は中国・西安市の碑林に建っているという漢時代の蒼頡そうけつの書碑に刻まれているものです(参照)。川崎真治氏によると、蒼頡書体の中には中国の文字学者にも読めないものがあるということで、

       

これは、上に紹介したサイトでは載せられていない分ですが、

この碑文に含まれている、
の3文字で、ガシャンと発音するそうです。これはウル語、あるいはシュメール語で「主(主 神)」という意味だということです(参照)。

はga・ガと発音する表音文字だそうです。

       新人物往来社刊・川崎真治著「古代日本の未解読文字」から部分転載


それから、 は、 によく似ています。

川崎真治氏によると、これはシナイ文字の「奉」だということです。





      
     
    新人物往来社刊・川崎真治著「古代日本の未解読文字」から部分転載

因みに、これは鳥取県米子市の陰田横穴墓から出土した、7世紀頃のものとされる須恵器ですが、二つの文字が刻まれています。
この文字を奈良国立文化財研究所は、上の字はケモノ偏に尓の「セン」、下の字は草かんむりに支の「キ」と判読したということですが、川崎氏はそのような中国語は存在しないとしています。上の字の偏はケモノ偏ではなく、陽の旁
つくりから日を取り除いたもので、これは漢字ではなく、日本で作られた文字だろうとしています。
文字の意味は、偏と旁から「日祖神」だとし、それは中国の日祖神であるパッダ神(参照)が元になっているとしています。その元になっている字は殷時代の甲骨文字の「爾・ジ」だということです。
それから、下の字は、奈良国立文化財研究所は草かんむりに支という字であるとしていますが、川崎氏はエジプト文字の「祈」という字だとしています。

                 





とよく似た字が、意外なところで見つかりました。


これですが、厳密にいえば違いますが、似ているといえば似ています。これは平田篤胤が書き顕している「仙境異聞」に記されているものです。仙境異聞は当時(文政三年・1820年)の江戸で話題になっていた、神隠しに遇い、その後仙界に出入りしている少年「寅吉とらきち」を、篤胤は自宅に住まわせて詳細に話を聞き出し、それを記録したものとされています。この中に、寅吉が書き残した仙界の文字が収められているのです。

      

これはその一部ですが、篤胤は「これは寅吉の書なれど何か知れず」と書き添えています。
これらの文字はカスガ文字やホツマ文字によく似ています。





インターネットで古代文字を調べていたら、兵庫県の六甲山にナマズ石というものがあることを知りました。ということで、昨日、神戸に行く際にちょっと遠回りをして、ナマズ石を見に行ってきました。



長さ8,6m、幅6,9m、厚さ(文字が書かれてある面)4,1m、
重さ推定500トン。インターネット上の写真では文字がどのように書かれてあるのか判りませんでしたが、近くで見ると石膏のようなものを塗りつけて書かれてありました。古さがどれくらいなのかは、観察だけでは何とも云えませんが、直感としてはかなり古いものと思われます。








近くで見るとこんな感じです。白い線はかなりしっかりと定着しています。古墳の壁画のように、密閉された空間にあるものでしたら、1500年以上の時間の経過の後でも残っている可能性はあるでしょうが、こうして露出している状態だったら、それほど長くは残らないのではないでしょうか。ですから、この岩が1995年の大地震以前、どういう状態であったのか知りたいところです。もし、巷間で云われているように、弥生時代のものだとすれば、地震で落下するまでは、比較的外気に触れにくい状態であったものと想像できます。たとえば、以前紹介した福岡県北部の亀山古墳の石棺内部の朱も、古墳が整備されて、石棺内部が露出し雨ざらしの状態になってからは、数年で剥落していっているようです。
六甲山の「ナマズ石」は文字が書かれてある面が立っているので雨が直接あたることはなさそうですが、1995年当時と2000年頃の写真、そして今の状態を比べてみると、やはり劣化はかなり進んでいるような気がします。


このナマズ石に書かれてある文字の一つと思われる

この文字は先に紹介した、仙境異聞に載せられている仙界の文字に似ているものがあるのです。

これがそうですが、厳密に見れば違いますが、構成されている線は同じです。

これも似ているといえば似ています。

部分としてこれはよく似ている形状の線です。
これは明らかに蛇を示す文字だと思われますので、ですから、この文字を書いた民族はヘビをトーテムにしていた可能性もあります。とすると、南方系ということになります。この先、西王母との絡みでまた述べようと思っている、厳島神社の祭~でもある市杵嶋姫
(イチキシマヒメ)も蛇をトーテムとする民族です。
六甲山は古来から山岳信仰の山でもあったので、江戸時代の少年が仙界に連れて行かれて教わった文字と同じような文字が、古来から伝えられているとしても何ら不思議はありません。


ナマズ石の この文字も、様々な古代文字に含まれているものです。

さて、 この文字については、先に紹介した川崎真治氏が詳しく研究されていて、同じものが日本各地の他、中国、韓国で確認されているのだそうです。
川崎氏によると、この文字は風神・エンリルを祭る司祭を意味するものだということです。ですから、この画像の曲線で描かれている左側に、薄く見える縦の直線も一つの文字を構成している偏のようなもののようです。

図示すると こうなります。
風神エンリルには暗喩名があるということで、それは50だそうです。

ということは、ナマズ石の この文字の右側に書かれている五つの記号は
      

        50という数字を示しているのでしょうか・・

その右の は神、あるいは天を意味する
文字だということです。







                  これは祈るという意味があるようです。





        

これは神奈川県の比々多神社境内にある、縄文晩期とされる線刻石の文字だということですが、上の文字によく似ています。
これに書かれてある片仮名の「ト」のような文字は上のナマズ石にも確認されますが、これはシュメール語で「メ・祈る」、あるいは「シブ・巫師」の意味があるそうです。これらと同様の文字が書かれた岩は日本各地で確認されています。

その左の六つの は途中から割れているので
判然としませんが、先の例に倣うといくつかの数字を示しているのかもしれません。もし六つだけだとしたら、60ということになり、川崎説に依ると、60は父なる神である「天神アン」を暗喩していることになります。
鹿島f氏によると、古代シュメール人にとって主要な神は、天空神であるアン、気の主であるエンリル、地の主はエンキ、母なる女神であるニンフルサグであるとしています。ニンフルサグはあらゆる生物の母でもあったようです。
これらのことは、最近ではゼカリア・シッチン氏やデーヴィット・アイク氏が主張しているように、レプタリアンなどの宇宙人が地球に住むようになった事実を物語っているのかもしれません。このような話は宇宙人など信じない人には荒唐無稽の出来事に思えるでしょうが、全く否定はできないことのようです。このことはいずれ明らかになるでしょう。
日本の神話に登場する神としてはウマシアシカビヒコヂといったところでしょうが、古代シュメールの神の痕跡が日本各地に残っている事実は見逃せないのではないでしょうか。








これは福岡県飯塚市の立岩遺跡から出土した、前漢時代の銅鏡の拓本ですが、この二重に鋳込まれた文字の内側のものに、私が所有しているものと対応していると思われる文字が見られるのです。

まず これですが、これは上の内側の文字の

が対応しています。ということはこの文字は篆文の「心」ということになります。

それから に対応していて、篆文の「内」と思われます。

それから、 で金文、篆文の「天」だと思われますが、「夫」かもしれません。 

ですが、金文の「似」に似ています。

で、篆文の「昭」だと思われます。 

そして ですが、金文の「艮(コン・うしとら)」に似ています。

に対応しているようですが、


この字の右側の旁つくりに似ています。これは「法」という字の甲骨文字ですが、同じ甲骨文字で「去」は上の画像の左側の偏に当たる文字になっているのです・・。このあたりの関係はよく解りません。

 に対応していますが、よく判りません。







これは神戸市立博物館に所蔵されている前漢鏡ですが、同じような文字が鋳込まれています。







そして、この前漢鏡も同様の文字があります(上海博物館蔵)。これには便宜上「内清質以昭明」・透光鏡という名前が付けられています。この「内清質以昭明」は鋳込まれている文字の一部、読み始めのことのようですが、残念ながら残りの文字については解説されておりません。ですが、最初の六文字だけでも解説されていますので参考になります。私の所有しているものとは「質」と「以」の位置が違っています。

そうすると、三文字目の「質」は に対応していることになるのでしょうか・・。





福岡県飯塚市の立岩遺跡から出土した前漢鏡が発掘された1963年に、銘文を解説した冊子が九州大学文学部から出されていました。また、その後の発掘とその成果をまとめた調査資料が1977年に出版されています。それらを入手したので、文字についての解説を見てみます。



1963年の冊子では、文字の解説を「釈読」としていますが、その前書の一部をまず紹介しておきます。
このたび張友漁・侯外盧・游国恩・夏ダイ先生をはじめとする中国学者の日本への来訪にあたり、九州大学文学部では、考古学研究室、中国文学研究室など協同して、その釈読をこころみ、目加田誠教授の校閲を得て、その釈読を紹介して記念の意を表したい。」
ということで、上の拓本の文字の釈読を見てみようと思います。今回は、手許にあるものと同様の文字列である内側の銘文のみにしておきます。読み下しの上段は1963年、下段は1977年の報告書によるものです。
内清質以昭明  清質を内にして、以て昭明なり
             内は清質にして、
光輝象夫日月  
光輝は夫の(その)日月を象る(かたどる)
                  夫の(かの)日月に象(に)たり
心忽揚而願忠  
心は忽ち揚りて、忠を願う
然壅塞而不泄  
然れども壅塞(ようそく・ふさぐ)して泄(もら)さず
                                 泄
(とお)らず
この銅鏡には便宜上名前が付けられていて、「重圏文清白鏡」とされています。直径は15,4cm。
立岩遺跡から出土した前漢鏡十面の内、同様の銘文が鋳込まれているものが他に三面ありますが、それらの文字は上の「重圏文清白鏡」と同じです。大きさは、「重圏文昭明鏡」・直径9,8cm。「重圏文清照鏡」・直径15,9cm。「重圏文精白鏡」・17,8cm。尚、直径15,9cmの「重圏文清照鏡」は1977年の資料では「清照」が「姚皎」となっています。






内清質以昭明  内は清質にして、以て昭明なり
光輝象夫日月  
光輝は夫の(かの)日月に象(に)たり
心忽揚而願忠  
心は忽ち揚りて、忠を願う
然壅塞而不泄  
然れども壅塞(ようそく・ふさぐ)して泄(とお)らず
は中国漢時代の前の時代である戦国時代末に編まれた楚辞から引用されたものだということです(参照)。ところが、楚辞をつぶさに調べてみましたが、これらの文字列は確認できませんでした。



そのことは取りあえず棚に上げておきまして、そうするとこの文字は、「内清質以昭明 光象夫日月 心忽揚願忠 然塞」となるのでしょうか。







それから、これは「内清質以昭明 光象夫日月一世」となりそうです。







そうしますと、手許にあるこの銅鏡の文字は、「内清以質昭 光象夫日一月 心不泄」となります。鏡が作られた時期や大きさにより、文字の省略や変更、あるいは間違いもあったのだと思われます。ということで、これで一件落着ということにしておきましょう。



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