日本の歴史について その九


古代丹波の地(現在の兵庫県のおよそ北半分)は、出雲(島根県)や吉備(岡山県と広島県の一部)と並んで大きな勢力を持った豪族がいたものと思われます。時代は弥生時代中頃でしょうか。淡路島の北西部に位置する兵庫県淡路市黒谷くろだに五斗長ごっさ地区にある垣内遺跡の時代、紀元1世紀頃の弥生時代後期でも同様で、大和地方では他の地域(九州北部、出雲、吉備、丹波)に比べると鉄(武器)の保有量は極端に少なかったようです。以前述べたように、弥生時代の頃と思われる饒速日尊にぎはやひのみことや3世紀頃の卑弥呼ひみこは、当時の大国を率いていたにもかかわらず、古事記・日本書紀ではほとんど取り上げられていません。

古事記・日本書紀の編纂を計画した天武
てんむ天皇(第四十代天皇)と先々代の天智てんじ天皇は兄弟とされていますが、大陸系の違う民族だという説もあります。出自から判断して、そのことは充分あり得るような気はしますが、新唐書の日本伝では「天智死、子天武立」とありますので(参照)、親子ということになっています。
どちらにしても、そこに至る
(8世紀)までには政権交代が多くあったことは想像に難くありませんが、初代の神武天皇から第九代の開化天皇までは実在の天皇ではないという説もあります。実質的な初代天皇と云われている第十代崇神すじん天皇もそういった意味ではあやふやな存在で、天武天皇によって大和朝廷が確立するまでの天皇は謎の人物が多いということは、専門家の間でも周知のこととなっているようです。
天智・天武天皇は朝鮮半島の百済
くだら・ひゃくさいからの渡来者ともされていますが、桓檀古記かんだんこきでは、先に紹介した実質的な初代天皇と云われている崇神天皇も、百済十三代の近肖古王とされているのです。そうすると、平成の天皇陛下が、天皇家は朝鮮半島との関わりもあると発言されたことは記憶に新しいのですが、天皇家は百済系の家系だとも云えるのです。




人間の細胞の中にある染色体の中の、男にあるY染色体は子孫の男だけに伝わるものだそうです。分子生物学者の福岡伸一氏によると、このY染色体というものは、父から息子に伝わるときに写し間違いが生じることがあるのだそうで、その「写し間違い」はそれ以降の子孫に継承されるのだそうです。
ですから、そのY染色体の「写し間違い」の系譜を整理すると、太古から現在に至るまでの流れを辿ることができるのだということです。この方法で、現在の各地の日本人を調べると、世界各地の雑多な系譜の混合が見られるといういことです。10万年ほど前にアフリカに現代の人類が出現してから、その後3回にわたりアフリカからの大量脱出があり、インド、ヨーロッパ、アジアを辿ったことも判り、最終的な漂着地は日本ということになるのだとか。ところがこのことは、数十年前に在野の歴史学者、菊地山哉氏や、桓檀古記
(かんだんこき)を訳した鹿島fのぼる氏が発表した説を科学的に裏付けることなのです。
詳しいことは後に述べようと思いますが、もう一つ、現代の地質学の成果により古代の記述が裏付けられた事柄があります。古事記・日本書紀に記されている初代天皇である神武天皇の東征の際に、大阪湾に入ってからのことを日本書紀では「河内国
(大阪)の草香邑くさかむらの青雲の白肩の津に着いた」とあります。河内の草香とは現在の東大阪市の日下のことですが、ここは今では海から12kmほど離れた陸地です。ですから、古事記・日本書紀の神武天皇の東征は実話ではないとされる説が有力でした。ところが、地質学の成果とでも云いましょうか、弥生時代の頃の大阪湾は内陸まであり、東大阪市の日下あたりはちょうど海際だったということが判明しているのです(参照)。ですから、古事記・日本書紀の記述に間違いはなかった、ということは、神武天皇の東征は事実だったのかもしれないのです。
勾玉について」のページでも述べたように、天照大神が活躍していた地が最初の天孫降臨の地だとしたら、現在の宮崎県の高千穂地方ということになります。日本で最初に稲作が行われたのは九州北部、福岡県とされていて、時代は縄文時代後期(紀元前1000年頃)というのが有力のようです。そうすると、その後稲作りが東に伝播して、宮崎県の高千穂地方に伝わったとすると、天照大神の時代は紀元前1000年より後ということになり、日本最古の王墓とされている九州、福岡の吉武高木遺跡の時代は、天照大神の時代よりは数百年後ということになります。神武天皇の時代については、紀元前7世紀頃とするのが定説ですが、東征のため出発した頃の日向(
ひむか・ひゅうが・宮崎県)はかなり発展した大きな国だったということは有り得るのではないでしょうか。
因みに鹿島f説では、日本建国史は朝鮮半島の百済国史と金官国史を合成して偽造されたものと見なし、神武は扶余王
(高句麗)の仇台としていて、九州北部の伊都国の王(神武)となったとしています。その後、ニギハヤヒが熊本に亡命して建てていた多婆羅国を併合し、二つの王朝を統一したとし、このことを百済本紀はニギハヤヒを肖古王とし、神武をその後代の仇首王としていると指摘しています。また、このことを中国の史料である「北史」では、「公孫氏が帯方郡をつくったときに、その同盟者として扶余王仇台がいて、帯方郡の下に倭人と韓人が支配された」と記されていると指摘しています。この二国の史料から、北史で記されている倭人は朝鮮半島南部と九州に及んでいたことが分かります。
ということは、鹿島f説では初代天皇の神武は弥生時代の終わり頃から古墳時代初めの頃の人物ということになりますが、そうすると応神天皇の頃に初代の天皇がいたということになり、辻褄が合いません。



以前の随想で紹介した日向ひゅうが(宮崎県)の盲僧琵琶奏者の永田法順氏の語りの一つである釈文しゃくもんに、「五郎王子の物語」というものがあります。これは四つの段からなる長大な物語で、すべて語ると2時間以上かかるものです。永田法順氏はもちろんこれを暗記されていて、琵琶を途切れることなく弾きながら語るわけです。その物語のさわりを少し書き出してみます。
そもそも、かけまくも かたじけなくも、まずは荒神の御本地を詳しく説き奉たてまつるに、これよりなんしゅうにあたりて、シンラン国と申す国あり。かの国には王は六人おわします。六人の王は六社の王といわい奉りて、いまだマガダ国のザガシラ王には、王子は五人おわします。まずは太郎はサクオン天王、次郎はマオウ天王、三郎はランジ天王、四郎はフクゾウ天王、五郎はトクゾウ天王とて、そのあらあなには、おと大王と大君、天に地神いげもんの神と名づけおかせたまえそうらいけんなる・・・以下延々と続く・・・」

この語りに出てくる「シンラン」 「マガダ」 「ザガシラ」 などはどう考えても外国の言葉のようですが、「マガダ」という国の名が頭の片隅に引っかかっていたのが、鹿島f氏の論文に目を通していたときにフイと出てきたのです。その論文は、タイの考古学者であるピシット・チェロエンワンサ氏の論文を、鹿島氏が訳されたものと合わせて氏の論文がいっしょに載せられたものですが、タイの古代文化であるバンチェンについてのものです。鹿島氏の論文は「倭人のルーツ」というもので、これは氏が桓檀古記を訳す際に遭遇した世界観を確認するために、東洋史を中心とした世界史をつぶさに調べ上げた結果が述べられているものです。この鹿島氏の説を裏付けるものが、バンチェン遺跡の出土品を考察したピシェット・チェロエンワンサ氏の論文という構成になっていて、二つの論文は深く結び付いているのですが、「五郎王子の物語」にでてくるマガダ国というのは、古代インドの中心地で、仏教もこの国から興ったとされています(参照)。マガダ国は紀元前6世紀頃から1000年以上も続いたということですから、日本では古墳時代が終わり、仏教が伝来する頃まであったということになります。

さて、永田法順氏が携わっておられる盲僧琵琶というものが、いつの頃からあったのかということは定かではないようですが、以前の随想で述べたように、琵琶という楽器は1400年ほど前の欽明天皇の時代に仏教が伝来した頃、中国から来朝した盲僧が、日向
(ひゅうが・宮崎県)の鵜戸という所で岩窟住まいをしていた遊教霊師という盲僧に伝授したのが始まりとされています。このときには地神陀羅尼経と土荒神の法も一緒に伝えられたとされていますが、永田法順氏が活動されている日向の地に、日本に最初に琵琶が伝わってきているということになります(参照)。
先に紹介した「五郎王子の物語」をもう少し続けると、「盤古
ばんこ大王」という人物が登場します。このバンコというのは、日向国の北隣に位置する豊後国ぶんご(大分県と福岡県の一部)にある宇佐八幡に伝わるバンコ神話と同じものだと思われます。これも日向と同様、当地に伝わる琵琶法師により伝えられてきた「一座経」のなかにあるということですが、犬神信仰のことです。犬神信仰の中心は滋賀県の犬上(神)郡にあったとされていますが、日本国内どころか、ベトナムや中国にも同じ信仰があったということです。以前の随想で、犬のような格好をして吠え、踊る隼人舞のことを紹介しましたが、これも同じルーツにあるのかもしれません。滋賀県の犬上郡という地名は、やはり銅鐸民族のようですね。犬上郡は銅鐸博物館がある滋賀県野洲町のすぐ近くであります。




世界史の解説書などでは、古代中国の文化(殷など)が日本や東南アジアに伝わっていったとされていますが、日本の縄文土器や、先に紹介したタイのバンチェンの青銅器などの年代から判断すると、どうも流れが逆のようなのですね・・。シルクロードということばがありますが、これには陸のシルクロードと海のシルクロードがあります。一般的には陸の方がよく知られていますが、以前にも述べたように、遠距離の交流は海の方がはるかに古く、また古代ではそれが主流だったことは、各地の遺跡からの出土物から判断できます。
つまりトルコなど西アジアから紅海を南下し、アラビア海を東進してインドを経由、東南アジアから日本に至る海のシルクロードを通ってもたらされたものが、中国に渡るというルートがあったということです。そのルートはシルク(絹)の交易以前からあったものと思われますので、厳密に云えば「シルクロード」ではないのかもしれません。たとえば、崑崙に産する玉
(ぎょく)は絹よりも古くから交易物として流通していました。そのルートが後にシルクロードになったものと思われます。
話を戻しますが、タイのバンチェン遺跡から出土している青銅器は紀元前2800年頃のものと判明しています。一方、中国の殷時代は紀元前1600年から始まっています。ですから、青銅器は中国から東南アジアに伝わったのではなく、ルーツはタイのバンチェンにあって、海のシルクロードを渡って中国やオリエント
(西アジア)に伝わった可能性が大きいのです。こういったことは、中国という国の、自分たちの国が世界の中心であるという中華思想に反することなので、殷時代の文化は中国文化とは認めないという流れもあるということですが、これは何も中国だけに限らず、西洋でも日本でも行われてきたことです。ヨーロッパ人による白人優先史観からのアレキサンダー大王(アレキサンドロスV世)白人説もそうですし、明治時代以降の天皇家の万世一系説もそうです。




日本の古代史を考察する上で避けては通れない資料とされているものに「古事記」と「日本書紀」がありますが、それに対する歴史家の態度は、今日では幾つかに分類することができます。大勢的となっているのは古事記・日本書紀の記述を史実として、考古資料と付き合せて考察していくもの。それから、古事記・日本書紀に加え、「上記うえつふみ」、「秀真伝ほつまつたえ」、 「宮下文書みやしたもんじょ」など、他の古伝書も参考にしていくもの。それに加え、これらの日本の古伝書と世界史(特にオリエント史)とを付き合わせて考察していく 方法を採るというものがあります。
古事記・日本書紀を主な資料とする歴史家は、他に存在する古伝書を偽書扱いすることが多いのは残念なことですが、以前の随想で述べたように、古事記や日本書紀の方が時の権力者の都合のいいように書かれた、もっと怪しい偽書とも云えるわけで、どちらも五十歩百歩なのです。
さて、これも以前の随想で取り上げた大野晋
おおの すすむ(氏は2008年亡くなられました)の、弥生時代の日本と南インドの関係 についての研究が発表されたのは1994年ですが、古代の日本がインドの影響を強く受けているという説は、それよりも17年前の1977年に浜田秀雄という歴史家により発表されていたのです。浜田氏(故人)は、桓檀古記かんだんこきを訳したり、倭人のルーツに関する研究論文を精力的に発表した鹿島昇氏(この方も故人となられています)の師にあたる人です。




浜田秀雄氏が重要視し、また大きな影響を受けた歴史書に「契丹文書きたいもんじょ」というものがあります。これは明治時代の日露戦争の際に、陸軍の経理将校だった浜名寛祐ひろすけ一行が中国遼寧省の奉天郊外にあるラマ寺で発見したものだということです。この文書は10世紀頃に 契丹民族の耶律羽之やりつ うしという人物が書いたものとされています。
当時の契丹民族は太祖の耶律阿保機
やりつ あほきが渤海ぼっかい国を滅ぼして国名を東丹とうたん国と改め、さらに後に後晋を滅ぼして遼を打ちたてたほどの勢いがあったのですが、耶律羽之は東丹国になった時の中台省右次相に任命されています。その時に、旧渤海国の史官を動員して修史を行い、46章からなる漢文体の史書を完成させたということは解っていたようですが、現物は長い間知られることがなかったということです。その史書が偶然日本軍により発見されたのです。
これは古い墳墓から発見されたそうですが、書名はなかったということです。広部精という人物が寺僧から写本を入手し、それをもとに浜名寛祐氏が写本を作って日本に持ち帰った。この書は、契丹語を漢字によって書き表すという、万葉集と同じ手法で書かれたもので、浜田氏はその後10年以上の歳月をかけて翻訳し、注解書を書き上げ、大正15年に「日韓正宗遡源
せいそう そげん」 と題して出版されました。





これは私の手許にあるものですが、左端が浜名寛祐氏著の「日韓正宗遡源」で、大正15年(1926年)に発行されたものが翌年昭和二年に再版されたものです。背表紙では「浜名祖光」となっていますが、祖光は法名で、序文では曹洞禅行者であることが記されています。その右のものは同書が平成13年(2001年)に復刻されたもので、タイトルは「契丹古伝」とされています。次のものは浜田秀雄氏による「日韓正宗遡源」の注釈書で、タイトルに「契丹秘史」と入れられています。先に述べたように、「契丹きたい文書」というものにはもともと書名がないので、注釈書を書いた人によりそれぞれタイトルが付けられています。右端から3冊は浜田秀雄氏の弟子にあたる鹿島fのぼる氏による「日韓正宗遡源」の注釈書で、鹿島氏は「倭人興亡史」としています。浜田秀雄氏の「契丹秘史」は浜名氏の「日韓正宗遡源」を古代インド史と比較しながら注釈を添えていますが、出版社の「新国民社」は鹿島f氏が立ち上げたものです。
「契丹秘史」はアカデミックな六国
りっこく史と符合しない内容なので、既存の出版社は取り上げてくれなかったということです。鹿島氏の「倭人興亡史」は、師の浜田氏の注釈に加え、古代オリエント史を含め海のシルクロードの歴史と比較されています。鹿島氏は他に韓国で発見された「桓檀古記」も膨大な解説書を出版しています。



「日本刀について」で紹介しているように(参照)、宮下文書に記されている三種の神器の由来の箇所で、崇神天皇の世に三種の神器の模品が作られた際に、命を受けて招かれた鍛冶の亀湖地かめこち、都留松つるまつ、千久男ちくお、宇目男うめお、竜真木りゅうまき、太都尾たつおという名前が挙げられています。都留(鶴)と亀は昔から日本では縁起がよいものとさてれいますが、鹿島f氏によると、鶴はニンフルサグ神で、カルデア人のトーテム、亀はアメニギ氏の率いるフツリ人蛇神のことであるとしています。因みに、四神相応しじんそうおうの北の守護神・玄武は蛇と亀が合体したものです。宮下文書では、たとえば、神皇之巻に記されている代々の天皇の妃である皇后の名前は玉依姫たまよりひめで通されています。ですから、三種の神器の製作をまかされた亀湖地、都留松、宇目男という名前は天皇の勅命を受けた者の名詞であったということも考えられます。犬のポチ、猫のタマみたいなもので・・。天皇に仕えるのだから縁起のよい名前でなければならない。普段は八つぁん、熊さんと呼ばれていても、天皇様にお仕えするのだから、縁起のよい名前にしなければならない。もしかしたら、その村にはお仕え用の名前が代々用意されていたということも考えられます。栄えある名前を付けられた代表は、多くの村人に見送られて出立したのかもしれません。

古墳は日本には数限りなく存在します。ここ丹波の地だけでも確認されている古墳は数千あるということです。ところが、この古代人の墓に埋葬されているのが誰であるのかはほとんど判っていません。天皇陵にしても、日本最大とされる前方後円墳である通称「仁徳天皇陵」も、その出土物から判断して明らかに仁徳天皇とは時代が違っているようです。今のところ天皇陵とされる古墳で埋葬者が判っているのは天智天皇陵と天武・持統の合葬陵の二つくらいで、それも確実なものではないとされています。これが中国になると、日本と同じ時代の古墳には、そこに埋葬された人物に関する墓誌が一緒に埋められているのがほとんどで、ですから、誰が埋葬されているのかすぐに判るのだそうです。
このように、古代の日本人にとっては墓に誰を埋葬したのかということには、あまり関心がなかったようです。このことは平安時代になっても同様で、相当の権力者でも、ある一族の墓ということまでは判っても個人までは判明しないのがほとんどのようです。ですから、先に述べたように、宮下文書に記されている皇后の名前が代々同じ「玉依姫」というのも、あるいは、天皇命を受けて奉仕する者の名前が個人名ではないというのも、当時の日本人の慣習だったのかもしれません。宮下文書の原文は、古代
(紀元前3世紀頃)に中国から日本に渡ってきた徐福が記録したものとされていますが、この書では徐福という名も代名詞的に扱われていて、代々、徐福と呼ばれているのです。他にも古代日本には、アメノヒボコやサルタヒコ、ニギヤハヒなど渡来集団の代表者の名が残っていますが、この名前なども、時代を超えて代々呼ばれてきたものなのかもしれません。

元祖三種の神器の一つである八尺瓊勾玉
やさかにのまがたまを作ったとされる人物は、古事記では玉祖命たまのおやのみこと。日本書紀では羽明玉はかるたま。古語拾遺では櫛明玉神くしあかるたまのかみということになっています。櫛明玉命は日本書紀に記されている羽明玉と同じ人物 とされています。どの記述もほぼ天照大神の時代ということになりますが、日本書紀では、別書で、「天熊人あま・又は あめのくまひとが天照大神に粟、稗、麦、豆の種子と、稲の種子を献上した。天照大神は天邑君あまのむらきみを定めて、稲種を最初に天狭田あまのさだと長田に植えた」とあります。ここで記されている長田は棚田のことですが、天狭田も同じような 意味だと思われます。天狭田の方がより標高の高いところだったのでしょうか・・。天照大神が活躍していた地が最初の天孫降臨の地だとしたら、現在の宮崎県の高千穂地方ということになります。
日本で最初に稲作が行われたのは九州北部、福岡県とされていて、時代は縄文時代後期
(紀元前1000年頃)というのが有力のようです。そうすると、その後稲作りが東に伝播して、宮崎県の高千穂地方に伝わったとすると、天照大神の時代は紀元前1000年より後ということになり、日本最古の王墓とされている吉武高木遺跡の時代は、天照大神の時代よりは数百年後ということになります。




2009年3月26日のニュースで、世界最古の鉄が発見されたことが報じられていました(参照)。発掘に携わっていられる中近東文化センターの大村幸弘氏といえば、1981年に出版された氏の著書、「鉄を生みだした帝国」をわくわくしながら読んだ記憶がありますが、そこでは、氏がトルコのアラジャホユックの博物館で、紀元前17世紀とされる鉄滓てつさいと出会い、世界最古の鉄を発見するまでのいきさつが書かれてあります。ですから、先に紹介した記事による、これまで最古とされている鉄は紀元前15世紀というのは、紀元前17世紀の間違いということになります。
アラジャホユック博物館には、当地にある古代遺跡から出土したものが展示されているということですが、ヒッタイト時代の出土物の中にはアナトリア文明博物館に展示されているものもあります。
その展示物で興味深いのは鹿のスタンダードです。 これは青銅製ということですが、胴体に銀の象嵌
ぞうがんが施されています。これを見て、私は日本から出土している金象嵌の鉄鏡を思い出したのです。これは九州大分県の日田市から出土したとされるものですが、ヒッタイトの鹿とは作られた時代は違うとは思いますが、何か共通したものを感じるのです・・。また、同じところから出土したとされる、金錯鉄帯鉤の模様は隼人の代表的な模様と同じような雰囲気があります。



         

              隼人の代表的な紋様

この紋様は、古代タイのワニ船(船首と船尾全体にワニの彫刻が施されている)の船体にも施されていたことが判っています。


      

また、紀元前2500年頃のタイのバンチェン遺跡から出土している青銅製の腕輪にも同様の紋様が施されています。




       そして、これは古代カンボジアの魔除けですが


         

         これにもよく似た紋様が鋳込まれています。


           

そしてこれは、ベトナムのドンソン文化(紀元前4世紀〜紀元1世紀)
青銅器の装飾。


      

     これは茨城県から出土している縄文時代後期の土器片


         

           これは出土地不明の縄文土器片


      

また、これは北海道から出土した縄文土器ですが、これにも同様の紋様が彫られています。東南アジア発祥の紋様が北海道にまで及んでいたことに驚いてしまいます。トルコのアラジャホユック遺跡や、今回最古の鉄が発見されたカマン・カレホユック遺跡は、考古学上はアナトリアと呼ばれています。ヒッタイトとは、紀元前2000年前後にこの地を席捲(制圧)していた帝国のことですが、時代によって、他にはオスマン帝国、ビザンツ帝国が栄えました。アナトリアは古代から様々な民族が到来しているようで、大村幸弘氏によれば、こういったことは 他の国ではあまり見られないということです。この地が厳しい気候風土であったにもかかわらず、多くの民族が到来したのは、アジアとヨーロッパの架け橋にあたる位置にあったからだということですが、それに対し、日本は北と南と西からの民族の吹き溜まりでした。
隼人族は、南方系の民族ですが、そのルーツはインドとされています。おそらく銅鐸(参照)を日本にもたらしたのも隼人系の民族だったと思われます。そうすると徐福(参照)もそうだということになり、鹿島f説によればニギハヤヒもそうだということになります。
富士宮下文書は日本にやって来た徐福が記したとされていますが、この書では、古事記・日本書紀で日本で最初の神とされる天御中主神
アメノミナカヌシノカミ以前の神々も記されています。この天御中主神もインドからやって来た隼人系の民族とする説がありますが、そうすると時代は紀元前700年以後 ということになり、先に述べた天照大神は、それ以後の時代ということになります。



       

これは兵庫県三田さんだ市 藍本にある高川古墳群の2号墳から出土している太刀たちの鍔つばですが、これにも隼人紋と同様のものが銀線で象嵌ぞうがんされています。三田市藍本は摂津国に属していた地域で、丹波の南と接しています(地図参照)。



上に紹介した隼人紋とよく似た紋様に渦巻きを繋いだようなものがあります。

      

これは弥生時代1世紀頃のものとされている銅鐸(兵庫県神戸市東灘区生駒・出土)ですが(参照


      

これとよく似た紋様が古代アフリカからも出土しているのです
参照)。時代は紀元前16世紀頃で日本の弥生時代よりは古いのですが、これはいったいどうことなのでしょうか・・


      
また、これはイタリア南部のバジリカータにある遺跡のものです。



この文様は古代から現代に至るまで各地で見られるのが興味深い・・



日本の勾玉まがたまは、最古のものは縄文時代前期(紀元前4000年頃)頃の遺跡から見つかっています。



画像上段は、縄文時代後期頃(紀元前2000年頃)と思われる勾玉ですが、これは翡翠で作られています。この頃の勾玉は上の画像のように長さが1,5cm前後の小さなものが多く出土しています。
これはおそらく、当時上の画像の下段のような翡翠のビーズといっしょに使われ首飾りとして使われたためと思われます(参照)。



      

この画像の上段は縄文時代後期とされる勾玉と管玉で、蛇紋岩で作られているということですが、左の勾玉は蛇紋岩のようですが、他のものは碧玉のように見えます。これらは鹿児島県の上加世田遺跡から出土しているもののようですが、2007年に原石は地元産であるということが判明しているようです(参照)。
蛇紋岩のモース硬度は5で、それほど硬いものではありませんが、碧玉は硬度7です。縄文時代の管玉には翡翠で作られているものもあり、それには直径1mmほどの細い穴が2cm、あるいはそれ以上の長さで貫通しているのです。硬度7の硬い石にこのように細い穴を開けるには、銅や鉄などの金属の錐
きりがどうしても必要だと思われるのです(参照)。
下段の4個は北海道から出土している旧石器時代後期
(1万4千年前)のもので、日本最古の加工品とされているものです。石はシベリア産のカンラン石だということです。カンラン石は硬度は7あり、翡翠や碧玉と同じように硬いものです。その硬い石に穴が 開けられていますので、14000年前でもかなり高度な加工技術があったということになります。ということは、こういった石の加工技術を持っていて、作る目的があれば、どのような形状のものも作ることができたと云えるのではないでしょうか。たとえば、勾玉というものを作りたいと思えば作ることができた。仮にそうだとしたら、それには勾玉を必要とした理由があったはずです。それは何だったのでしょうか。当時の流行だったとしたら、最初にそれを作った人がいるはずです。あるいは、どこかからやって来た民族が糸魚川の翡翠を見て、それで勾玉を作ろうと思ったのでしょうか。知りたいところです。

勾玉のルーツに関しては、中国の石器時代の紅山文化の玉加工品に勾玉が見つかっているようなので(参照)、それが事実だとすれば縄文時代の勾玉は中国から伝わってきたということになります。紅山文化は紀元前4700年頃に始まっているとされていますので、その勾玉が紅山文化初期に作られたものだとしたら、それが日本に伝わった可能性はあるということになります。因みに、日本で出土している最古の勾玉は紀元前4000年とされています。




紅山文化時代は玉の加工を得意としていたようです。造形物の大胆なデフォルメが特徴的で、造形の対象は龍、鳥、豚、人物など様々ですが、これらの造形のデフォルメの仕方が日本の縄文時代の造形物の雰囲気によく似ているのです。特に縄文土偶に多い女性像にそれを感じます。
縄文土偶は先に紹介したアナトリア文明博物館に展示されている「地母神の座像」ともよく似た雰囲気がありますが、同様のものは古代ヨーロッパの遺跡からも出土(参照)しています。これら豊満な女性像をヴィーナスとすれば、それに対してファルスがありますが、これも中国紅山文化時代の石の造形物にも、日本の縄文時代にも、また古代ギリシャ、ヨーロッパの遺跡からも出土しています。
ファルスとヴィーナスを祀ることは、人間の営みの根源的なことなので、洋の東西を問わず行われています。ですから、それを文化の繋がりとして結び付けるのはこじ付けになるのかもしれませんが、道祖神としてファルスを祭ったりすることは、文化の繋がりがあるとみてもいいような気がします。道祖神としてのファルスは古代ヨーロッパにも日本にもあります。
日本で道祖神といえば猿田彦が元祖ですが、猿田彦の風貌は日本書紀に記されているように、明らかにペルシャ系です。猿田彦は、縄文時代には日本に渡って来ていたと思われますが、その後、新説のように弥生時代が紀元前1000年頃に始まったとすれば、当時の中国(殷・周時代)の戦乱を逃れた多くの難民が朝鮮半島を経て日本にやって来て、弥生時代となったわけです。その時に吉武高木遺跡から出土したような、勾玉や銅剣、それから朝鮮半島に起源を持つ多鈕細文鏡もいっしょに伝わってきたものと思われます。その後、日本の縄文時代に作られた糸魚川産の翡翠の勾玉を目にし、それを宝物としたものと思われるのです。 また当時
(弥生時代中期)は中国の神仙思想も日本に入ってきていたようで(徐福の影響と思われます)、仙薬として使われていた褐鉄鉱の容器(自然に生成したもの)に入れられた勾玉も発見されています。




これは奈良県の唐古・鍵遺跡から出土したもので、時代は弥生時代中期後半(紀元前100年頃)とされています。この勾玉の左のものは翡翠製で、作られたのはこの時代だと思われますが、右のものは吉武高木遺跡から出土したものと同様、縄文時代に作られたものと思われます。これも翡翠です。



清川理一郎氏が指摘されていることで興味深いことがあります。それは、中国で古代から言い伝えられている西王母の像と、日本の翡翠の産地である糸魚川にある奴奈川ぬなかわ神社に祭られている奴奈川姫の像のポーズがよく似ているというものです。


         

      これは糸魚川・奴奈川神社の奴奈川姫の像です。


           

これは中国の紹興から出土している後漢時代と思われる銅鏡(参照 参照)に鋳込まれた西王母像ですが、たしかによく似ています。先に紹介したWikipediaでUPされている像も似ているといえば似ています。このような像は他にもありますが、これは西王母像の決まったパターンのようですね。
西王母は中国の崑崙山脈に住んでいたとされる仙王ですが、美玉
(びぎょく・美しい石)を象徴する女王ともされていたようです。このことも糸魚川の奴奈川姫と共通しています。日本には、このように美玉に関係している女性は他にも存在しますが、その一人に神功皇后がいます。


      
              大分の歴史と自然から転載

これが神功皇后像ですが、西王母像と奴奈川姫像と同様の姿をしているます。これはどういうことなのでしょうか。女性の神像の決まったパターンなのでしょうか。この木像が紹介されているサイトの八幡三神の一神、比売神像の方が先に紹介した奴奈川姫に似ています。奈良県薬師寺の休ケ岡八幡宮のものは、またちょっと違ったものです(参照)。


         

こちらは、東北地方のマタギにより信仰されている「山の神」です(暁教育出版社刊「かくれ里」より)。これも同じような姿ですね。東北地方は、石器時代から中国大陸と繋がりがありましたが、それは数千年後の弥生時代まで続いていたのかもしれません。中国の西王母も山の神ですから、ここにも繋がりがあります。因みに、神功皇后も東北地方とは繋がりがあります。秋田県の唐松神社に伝わる古文書(秋田物部文書)では、神功皇后の三韓征伐に秋田物部氏もののべうじの膽咋連いくいの むらじが武内宿禰たけのうちの すくねと共に 加わったと記されていて、その功績により皇后の御腹帯を賜り、それを出羽国に創建した神社に祀ったということです。このことはもちろん、古事記・日本書紀には記されていません。また、近畿内陸の奈良県十津川村では、熊野古道付近で信仰されている山の神も女神とされています。

         

因みに、この女神は熊野三山の一つ、速玉大社の祭~である「夫須美神」です。


          

これは京都嵯峨野に鎮座する松尾大社に宝物として安置されている木像ですが(九州国立博物館刊行図録より)、この姿も西王母、奴奈川姫、神功皇后像と同じです。松尾大社の祭~は大山咋神おおやまぐいのかみと中津島姫命なかつしまひめのみこととされていますが(参照)、これらは日本最古の木造神とされています。また、松尾大社は京都最古の神社ともされていますが、本来の御神体は本殿の裏山、松尾山にある巖座(いわくら・岩)だということです。松尾大社の祭~の一つである大山咋神は、古事記では、大年神の条に「大山咋神、亦の名は山末之大主神。この神は近江の日枝の山に座す」と記されています。大山咋神は渡来神大年神の子ともされ、仏教を信仰する新漢人たちの集団が継体天王に率いられ、近江西岸に入ってきたのがルーツとされています。この近江琵琶湖西岸の地は、古代安曇あずみ族の地であったことは以前の随想で述べたことがありますが(参照)、九州北部を本拠地としていた猿田彦とも関係があります。また、この地では古代古文書の一つである秀真伝ホツマツタエが発見されています(参照)。
先に紹介したサイトで説明されている、福岡県の宗像
むなかた大社に祀られている三女神の一神とは、市杵島姫命いちきしまひめのみことのことです。市杵島姫命は弁天様でおなじみの広島県厳島神社の祭~でもありますが、厳島神社の祭~は宗像大社と同じ宗像三女神の内の一神です。宗像三女神とは、沖津宮おきつみやの田心姫たこりひめ神、中津宮なかつみやの湍津姫たきつひめ神、辺津宮へつみやの市杵島姫いちきしまひめ神の三神のことを云います。宗像大社は宗像三女神を祭る神社の総本社です。沖津宮に当たる福岡県の玄界灘の孤島である、沖ノ島は海の正倉院とも云われていて、そこからの出土物にはササン朝ペルシャのものも含まれています (参照)。




先に述べたように西王母は一般的には中国の崑崙山脈に住んでいた仙女とされていますが、土居光知氏は西王母伝説は中国・戦国時代に西域から伝わってきたものであるとしています。
氏の説によると、古代中国における西王母伝説は、初め秦時代以前の中国では崑崙山を帝の下都
(帝の宮居)としていたが、その後、崑崙山そのものが信仰の対象となり、その西の麓には「若木」、「不死樹」、「美果を稔らす木」、「宝石の林」があり、女神の宮があり、鳳凰が舞う楽園があると想像していたということです。
それが、漢時代になると、この楽園が崑崙山の西方へ遠ざかり、西アジア方面にあると信じられるように変わっていたとしています。つまり、元々はチグリス・ユーフラテス流域の伝説が東に伝わったものが東洋の神仙伝説と融合して神秘化され、複雑になっていったということです。因みに中国では、ユーフラテス川は弱水と記されています。
これらの伝説は、中国では「淮南子」、「山海経」、「穆天子伝」などに記されているということで、それが一部取り上げられていますので、紹介しておこうと思います。これらの伝説は、日本での西王母と奴奈川姫、それから神功皇后を比べていくときに参考になるものと思われるのです。読み下しは土居光知氏のもので、意味が掴みにくい個所はこちらで適当に書き変えております。

「山海経」では黄河の水源地にある山について記されていて、

崑崙こんろんの山、これ帝みかどの下都なり。-中略-
 
河水はここより出で南流し、その後東に流れ無達に注ぐ。赤水を出でて東南に流れ天に注ぐ。洋水を出でて南西に流れ醜塗に注ぐ。黒水を出でて西に流れ大汗に注ぐ。とあります。

「大荒西経」には、
西に西王母あり。壑山がくざんにして海山なり。
よくの国あり、沃の民ここに居住す。沃の野には鳳凰の卵はこれを食し、甘露はこれを飲む。およそ、その欲するところは、その味尽くせり。センカイ、ヨウヘキ、白木、ロウカン、白丹、青丹、銀鉄多し。鸞鳥自ずから歌い、鳳凰自ら舞う。ここに百獣あり、相群がる。この処を沃の野という。

「淮南子」には、
崑崙の上に木禾もっかあり。その長さ五尋、珠樹、
玉樹、セン樹、不老樹はその西にあり。沙棠
さとう
ロウカンはその東にあり。縫樹
ほうじゅはその南にあり。碧樹、ヨウ樹はその北にあり。-中略- 河水は崑崙の東北のすみに出で、渤海ぼっかいを貫き、禹の導く所の積石山に入る。赤水はその東南のすみに出で
西南して南海丹沢の東に注ぐ。
赤水の東は弱水
(ユーフラテス川)なり、窮石より出で、合黎(ごうれい)に至り、余波流沙に入り、流沙を渡り南して南海に至る。洋水はその西北のすみに出で、南海羽民うみんの南に入る。凡そおよそ四水は帝の神泉なり。
以って百薬を和し、以って万物を潤す。
とあります。



西王母に関する古代中国の伝説の内、土居光知氏が取り上げていないものを摘みあげておきます。この読み下しも、意味が掴みにくい個所は適当に書き変えております。

まず山海経から
ラボ山から西方に三百五十里、玉山と云う山あり。是れ西王母の居る所なり。西王母はその状
(かたち)人の如くにして、豹の尾あり、又、虎の歯を持ちて よく嘯く(うそぶく)以下略

また穆天子伝には
天子は西王母に賓す
(会う)。白圭玄壁を執り、以て西王母に見(まみ)ゆ。-中略- 西王母、天子のために謡いて曰く「白雲天にあり、山リョウ自づから出づ。道里悠遠として山川これを間つ(へだつ)。将はく(ねがわく)は子の死することなく、尚はく(ねがわく)はよくまた来たらんことを」と。天子これに答えて曰く、「われ東土に帰り、諸夏を和治せん。万民平均せば、われ顧みて汝に見えん。三年に及び、まさに而(なんじ)の野に復(かえ)らんとす」と。
西王母また、天子のために吟じて曰く、「かの西土に徂
(ゆ)き、その野に居る。虎・豹群れをなし、於・鵲(うじゃく)処を与(とも)にす。嘉命(かめい)(うつ)らず、我はこれ帝女なり。」以下略 とあります。

同じく穆天子伝から
天子は宋周の廟に大朝し、西土の数を測る。宋周テン水より西の方、それより北に位置するところ河宋
かそうの国、陽紆よううの山に至ること三千四百里なり。陽紆より西の方、西夏氏せいかしに至ること二千五百里なり。さらに西夏より珠余氏しゅよしに至り河首かしゅに及ぶこと千五百里なり。それそり河首襄山かしゅ じょうざんより西に行き、南方に春山しょうざん・主沢しゅた・崑崙こんろんの丘に至ること七百里なり。春山より西に行き、赤烏氏せきうし春山しょうざんに至ること三百里なり。東北に向かい還り、群玉ぐんぎょくの山に至る。その先春山にさえぎらる故に北に向い、群玉の山より西の方に西王母の国に至ること三千里なり。西王母の国より北の方、曠原こうげんの野に至る 以下略 

次に「神異経」から
崑崙の山に銅柱あり、その高きこと天に入る。所謂
いわゆる天柱なり。周囲三千里、円柱にして表面研磨せらる如し。下に回屋かいおくあり、方(四角形の一辺の長さ)百丈、仙人の九府の治所にして天地とともに休息す。男女は名付けて玉人ぎょくじんと云い、配疋(はいひつ・結婚)を為すこと無くして、仙同成るなり(仙人の能力を備えている)。上に大鳥あり、名付けて稀有けうと云う。これ南に向かいて左翼を張りて東王公を覆い、右翼を以って西王母を覆う。背上の小さきところは羽無く、一万九千里にして、西王母歳ごとに翼上に登りて、東王公のところに行く。その嘴くちばしは赤く、目は黄にして金の如し 以下略 

次に「洞冥記どうめいき」に記されている分を紹介しておこうと思うのですが、煩雑で内容が荒唐無稽なので概略を述べるに止めようと思います。西王母が登場する話は東方朔とうぼうさくという人物の生い立ちと行状が述べられている箇所ですが、三歳のときに優れた暗記力を発揮したり、天下の物事について指図をしたり、という謂わば天才だったようです。また、空中に向かって何かを語りかけたり、突然姿が見えなくなり数か月後にまた突然姿を現わしたり、と、江戸時代の平田篤胤が「仙境異聞せんきょういぶん」で書き記している仙界の世界に出入りする少年を彷彿とさせる出来事が述べられています。
西王母の記述がなされているのは、東方朔が元封年間
(紀元前110年〜105年)に濛鴻もうこうの湿原を訪れた件です。そこのところを書き出してみます。

東方朔は元封中(元封年間)を以って濛鴻の沢に遊び、西王母の白海の浜にて桑を採るを見る。俄かに黄眉の翁(白い眉の老人)の西王母を指さす有り。翁、東方朔に告げて曰く、「昔、我が妻(西王母のこと)は形を託して太白の精と為す(金星の精に姿を変えていた)。今、汝(東方朔のこと)もまたこの星の精なり。吾われは食をしりぞけ、気を呑み、すでに九千余歳なり。目中の瞳子ひとみは色皆青く光りて、よく幽隠の物を見る。三千歳に一度ひとたび骨を刻みて毛を伐るに、吾の生まれてよりすでに三度髄を洗い、五度毛伐れり」と。

漢武故事」には、
東郡より短人こびと一人送らる。長(身長)七寸(約20cm)、衣冠具足す。帝(漢武のこと)、山の精なるかと疑う。常て(かつて・ある時)案上(卓の上)に歩かしめし折、東方朔を召して問わんとす。東方朔至り、短人を呼びて曰く、「巨霊(短人のこと)、汝(なんじ・おまえ)は何ぞ忽ち(突然)西王母の国より叛来するや。阿母(あぼ・西王母のこと)還れるや未だしや」と。短人は答えず東方朔を指さし、帝に曰く、「西王母桃を植う。三千年に一度ひとたび実を成すもこの児(東方朔のこと)良からず。すでに三過(三度)これを偸む(ぬすむ)。ついに西王母の意を失う(機嫌をそこねる)。故に罰せられここに(人間界)に来たる」と。帝大いに驚き、東方朔が世中の者にあらざるを知る。短人、帝に曰く、「西王母、我を臣として(使いとして)来たらす。陛下(武帝のこと)の神仙の道を求るの法は、ただ清浄あるのみ。宜しく躁擾(そうじょう・いらだつこと)すべからず。また五年後、帝と会はん」と。言い終わるや姿消ゆる。 とあります。
この記述から、先に紹介した「汝(東方朔のこと)もまたこの星の精なり」ということが裏付けされることになります。

「漢武故事」の漢武帝は、紀元前156年〜187年の間、前漢の皇帝に就いていたとされる人物で、前漢時代の最盛期を現出させたことでも知られています。政治的には紀元前およそ500年の時代の孔子の教えである儒教を国教として、中央集権化を図ったということです。このことは、現在のロシアがロシア正教を積極的に広めていることを彷彿とさせますが、漢武帝は神仙を固く信じていたようで、祭りごとを頻繁に行い、同時に進めていた外征にかかる費用と乗じて財政が逼迫していったということです。
そうした武帝ですから、西王母も深く信仰していたようですが、その行状も「武帝故事」には書き記されています。ですが、西王母をはじめとする神仙を求める欲求が強すぎたことを、後には反省している様子も記されているのです。そのあたりの件を書き出してみます。

帝曰く、「朕は(自分は)即位して以来、天下愁苦す。
為すところは狂勃
(きょうぼつ・常識外れ)、追悔すべからず。今より百姓を妨害し、天下を費耕する者あらばこれを罷めん(やめん・止める)」と。田千秋(人名)奏して(帝に奏上して)、諸々の方士を罷め、これを斥遣せんことを請う。帝曰く、「大鴻臚(官名)の奏は(奏上)は是(ぜ・そのとうり)なり。その海上の諸侯及び西王母の駅、悉く之を罷めよ」と。

「武漢故事」の最後の方では、神仙を信じ、不老不死の薬も飲んでいた武帝も、老衰という現実を実感するにつけ、「神仙と不老不死はでたらめだ」と近臣の者に口にしていたということも記されています。それから、死去した武帝が、後に霊として姿を現したことも記録されいています。その折には、自分の墓石を砥石として使わないように申し伝えているのですが、その犯人は私の祖先だったのかもしれません(参照)。


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