天日槍について これまで何度か取り上げた「天日槍あめのひぼこ」は朝鮮半島の新羅しんら・しらぎの王子で、新たな製鉄技術を日本にもたらしたと云われています。天日槍については古事記、日本書紀、播磨国風土記はりまのくにふどき(兵庫県)、筑前国風土記(福岡県)などに記されていますが、それぞれ違った記述がなされています。おおまかに述べますと、古事記では「昔、新羅の国の阿具沼あぐぬまのほとりで昼寝をしていた女が、太陽の光によって孕はらみ赤い玉を産み落とした。この様子を見ていたある男がその玉をもらい受け、それが偶然天日槍の手に渡る。するとその玉は美しい乙女(アカル姫)になったので天日槍は妻とした。その後月日が経つにつれ、天日槍の態度が横柄になったので乙女は親元へ帰ると言い残し、密かに小舟に乗って日本の難波なにわ・大阪に逃げた。天日槍はそれを知り、後を追ったが難波津の神(海の神)が行く手を阻んだので但馬たじま:兵庫県北部にとどまった。」 というようなことが記されています。 日本書紀垂仁紀では、「新羅の王子である天日槍は神宝を携えて日本にやって来た。朝廷は播磨国はりまのくにの宍粟しさわ・兵庫県宍粟市・しそうの地と淡路島の井浅いでさの地を与えようとしたが、天日槍はこれを断り、自分の住む所は自分で探すと言い、宇治川(淀川)を遡り、近江滋賀県から若狭福井県へ移り、但馬兵庫県北部の出石いずしに住み着いた。」とあります。 播磨国風土記・揖保郡いぼのこおりの条では、「韓国からくに(朝鮮半島)からやって来た天日槍が揖保川に至ったとき、葦原志拳乎あしはらしこお(大国主神おおくにぬしのかみ)に土地を譲ってほしいと願い出た。葦原志拳乎は取りあえず海にとどまるように言うと、天日槍は海面を勢いよくかき混ぜたので、葦原志拳乎は恐れた」と記述されています。また同じく播磨国風土記・宍禾郡しそうのこおりの条では、「葦原志拳乎と天日槍が一つの谷の領有権を争った」とあります。同じく播磨国風土記・神前郡かんざきのこおりの条でも「出雲神いずものかみ(=大国主神)と天日槍が争った」と記されています。 筑前国風土記では「高麗国こまのくにの山に天から降ってきたヒボコが同じ国の怡土郡いとのこおり(福岡県糸島郡)の県主あがたぬしの先祖である」ということが書かれてあります。以上が概略です。また天日槍についての考察も様々になされていますので、それを紹介しておきたいと思います。 天日槍に関することを詳しく調べていらっしゃる゙智鉉(チョ・ジヒョン)氏によると、天日槍に代表される渡来系集団の足跡は日本各地に現在でも残っているということですが、その分布の様子を見てみると、いろいろと興味深いのです。それは伝説として伝えられている、天日槍の日本に来てからのルートと合致しているのですが、まず日本に最初に上陸したと思われる九州北部を見てみると、さすがにここは密集しています。密集しているというのは神社ですが、天日槍ゆかりの神社の名でよく見られるのは新羅しらぎ神社、あるいは新羅が訛ったと思われる白木しらき神社、荒人あらひと神社(これは日本書記に記されている天日槍と 同一人物とされている都怒我阿羅斯等ツヌガアラシトに縁があるものと思われます)。その他、出石いずし神社、波多はた神社、亀山神社など多くあります。これらは九州のみならず、天日槍縁の神社所在地の東限である三重県東部まで各地に同様の名の神社が存在します。 亀山神社は、私が7歳から18歳まで住んでいた所にもあり、子供の頃の遊び場でした。そこは古墳(円墳)で、神社の境内となっている所に石棺が露出していて、今では見学しやすいように整備されています。どの石棺も内部は朱で赤く塗られていて、子供を埋葬したと思われる小さなものもあります(参照)。 この地域には猿田彦大神と彫られた石碑も散見されます(参照)。猿田彦といえば、二度目の天孫降臨のとき(参照)に道案内をしたということで知られていますが、渡来系の海人あまだったという説もあります。 平安時代中期に編纂された倭名抄わみょうしょうという漢和辞典では、「筑前国(福岡県)怡土郡いとのこおり・那珂郡なかのこおり・宗像郡むなかたのこおりには海部郷あまのさとがあり、同国(筑前国)糟谷郡かすやのこおりには海人の統率者である阿曇連あずみのむらじの本拠地とみられる阿曇郷がある」 また、「博多湾の志賀島しかのしまには阿曇連の祖神である綿津見わたつみ三神を祭った志賀海しかうみ神社(参照)が、筑前国宗像郡むなかたのこおり田島、大島、沖之島には宗像三神を祭る宗像神社があり、さらに筑前国那珂郡には住吉三神を祭る住吉神社がある」とあります。 ですから、猿田彦は天日槍と何らかの関係があるのかもしれません。 天日槍に代表される渡来系集団の足跡所在地を追ってみると、海沿いが多いことに気が付きます。例外は九州北部と滋賀県くらいでしょうか・・。 このことは天日槍は海洋民族だったという説を裏付けるものだと思われるのですが、九州の地で天日槍縁の神社が見当たらない所は宮崎県です。これは興味深い現象ですね。ということは、宮崎県には天日槍を寄せ付けないほどの力を持った豪族がいたということなのでしょうか。宮崎県といえば、この国(日向国ひゅうが・ひむか )の高千穂の地は最初の天孫降臨の地とされている所です(参照)。 ここ丹波篠山の地にも天日槍ゆかりの神社は見当たりませんが、気になる神社がJR篠山口駅の近くにあります。それは島姫神社ですが、天日槍とゆかりのある姫島神社と何か関係があるのでしょうか・・。 丹波地方にに多く存在する古墳には、出土品から渡来系の人物が葬られていると思われるものも見られますが、天日槍に関係する新羅系の出土物(鉄テイという鉄の素材、耳飾、金冠などの装身具、武具、馬具、土器など)は見当らないようです。 日本書記では、日本初代の天皇である神武天皇は日向国ひむか・宮崎県の吾平津媛あひらつひめを妃とし て娶っているとされていますので、天日槍と時代が合っていなくても当時日向国には強大な力を持った人物がいたものと想像できます。先に猿田彦と天日槍は何らかの関係があるのではないかと述べましたが、宮崎県が天日槍と縁がないとしたら、どのような関係だったのでしょうか・・。 丹波北部にも豪族はいたようで、1998年に発掘された弥生時代の古墳(大風呂南1号墓)からは、鉄剣11本、紺色ガラスの腕輪などが出土しています。鉄剣11本が出土したというのは前例を見ない大量のものだそうです。日本における鉄器生産開始は1世紀半ばということになっているようですが、当時はまだ日本では鉄剣を作ることができなかったということで、鉄素材や鉄製農具、工具、矢尻などの販売による収益で中国か朝鮮から輸入したと考えられています。 鉄剣は腕輪と並んで富の象徴でもあったということです。このように、3世紀初頭の大和や出雲の豪族を凌駕するほどの人物が所有していたものが丹波の地から出土しているのです。先に紹介したように、古事記、日本書記や播磨国風土記・宍禾郡しそうのこおりの条を見ると、天日槍と各地の権力者との軋轢があったことが伺われます。そうすると、天日槍が日本にやってきた時代は古墳時代が始まる頃、3世紀から4世紀頃と推察できそうです。古事記では天日槍が難波津の神(海の神)から行く手を阻まれたことが記されています。九州から東進し難波津(大阪湾)に出るには、瀬戸内海の淡路島と本州が接近している明石海峡を通る必要があります。先般ここでは3隻の船が衝突事故を起こしタンカーが沈没しましたが、それほど狭い海域で航行船舶数も多いのですが、これは今も昔も変わらなかったのではないでしょうか。 日本近辺では、旧石器時代(数万年前)から北はシベリアから南は東南アジアまで海上交通は盛んだったということは動かしがたい事実だったようです。ですから天日槍が日本に来たのがもし弥生時代の頃だったとしても、当時では朝鮮半島から九州〜瀬戸内海〜大阪湾難波津〜宇治川淀川〜琵琶湖〜若狭湾〜朝鮮半島という水上ルートがしっかりと出来上がっていたようです。 天日槍が最初に日本へ上陸したと思われる北部九州の地、佐賀県に鏡山という山があり、その山上には鏡山神社があります。ところが、それと同じ名前の山が遠く離れた滋賀県の竜王町にもあるのです。そして、その山の麓には鏡神社が鎮座しています。ここで興味深いことは、滋賀県の鏡山の鏡神社の祭神は天日槍なのですが、佐賀県の鏡山神社の祭神は神功皇后じんぐうこうごうなのです。そして、この神功皇后の母系の先祖は天日槍とされているのです。因みに父系の先祖には丹波(兵庫県北部)の女性と結婚してる人物が二人ほど見られます。 佐賀県の鏡山は別名領巾振山ひれふりやまと呼ばれていて、領巾ひれは天日槍が 日本へ来た時に持ってきた八種の神宝の一つとされています。ですから、佐賀県の鏡山神社の祭神はもともとは天日槍だった可能性もあります。神功皇后(3世紀)は 三韓征伐を行ったことで知られていますが、これには異論もあるようですが、もしそれが事実だとすれば、朝鮮半島に渡る前に佐賀県北部に立ち寄ったことは充分考えられます。因みに鏡山という山は大分県の宇佐地方にもあります。八幡神社の大本である宇佐神宮が鎮座している所です。当然、ここに祀られている神にも神功皇后が入っています。 天日槍集団が日本へもたらしたものとしては、製鉄技術とそれまでの日本にはなかった焼成温度の高い焼き物を焼く技術(須恵器)、巨石築造技術などとされていますが、 天日槍に縁のある神社に鏡という字が当てられているからには、やはり青銅や白銅(鏡は白銅で作られます)あるいは鉄の鋳造技術も優れていたのではないでしょうか。神功皇后は天日槍の末裔であるという説もありますので、佐賀県の鏡山の祭~が後に入れ替わったということも充分考えられます。また、大分県日田市では象嵌装飾が施された鉄鏡が発見されています。 それから、鏡という字で連想するのは、万葉歌人の代表的人物である額田王ぬかたのおおきみのことです。公の場での天皇の歌を代作していたという 逸話が残っているほどの天才歌人として名高い女流家人・額田王ですが、生没年など詳しいことは判っていません。 親の名前は鏡王かがみのおおきみということは判っているようですが、その人物が男性なのか女性なのかは不明のようです。王という名が付いているくらいですから、それ相当の豪族だったと思われるのですが、私が調べたところでは、日本書紀の天武紀二年に「天皇初娶鏡王女額田姫王、生十市皇女」とあり、それから十二年7月4日に「天武天皇が鏡姫王の家に行って病を見舞った」、そして、翌日5日に「鏡姫王が薨じた」とあります。 天武二年に記されている「天皇初娶鏡王女額田姫王、生十市皇女」の解釈の仕方により、鏡王と額田姫王が親子にもなり他人にもなります。専門家により、「天皇は初めに鏡王の娘額田姫王を娶って、十市皇女が生まれた」と読み下されている場合(これが主流のようです)と、「天皇は初めに鏡王を娶り、額田姫王は十市皇女を生んだ」と読み下している人もいます。後者ですと、鏡王は女性になり、また額田姫王との関係は親子でなくても意味は成立することになります。それから、「娶る」がどちらにかかるかで鏡王は男にも女にも解釈できるようです。そうすると、十二年に記されている天武天皇が見舞った「鏡姫王」という人物は誰のことなのでしょうか・・。 万葉集では額田王と鏡姫王の歌が載せられていますので、やはり、鏡王が女性であるという解釈は無理があるようです。ですから、鏡王はやはり男であり、その妃が鏡姫王というのが自然のような気がします。額田王とは親子なのか親族なのか、そのどちらかなのでしょう。 古代朝鮮語で万葉集を読むことを試みられた日本生まれの韓国人・李寧熙(イ・ヨンヒ)女史が書かれた 「もう一つの万葉集」という本では、額田王は新羅語に堪能だったと述べられています。額田王は幼少の頃から斉明天皇(百済系渡来人)に教育を受けていたという説もあり、当時の朝廷では朝鮮の百済を外国とは考えていなかったようで、日常的に韓国語も使われていたことも充分に考えられるということです。それなのに額田王は歌は新羅言葉で作っているのだそうです。ですから額田王は新羅系渡来人の集落に住んでいたのかもしれない、ということも考えられます。 滋賀県にある琵琶湖の南東部、野洲町から竜王町にかけて点在する古墳では銅鐸が多く出土しています。この地域は天日槍 が難波津(大阪湾)から宇治川(淀川)を遡った終点に当たります。先に述べた竜王町の鏡神社が天日槍と何らかの関係があると思われるのは、この地で天日槍集団がもたらした青銅の鋳造技術が根を下ろしたからではないかと推察されるからです。 銅鐸文化は紀元前2世紀頃に猿田彦がもたらしと思われますが、天日槍がやってきたと思われる3世紀後半には銅鐸を作る習慣はなくなっていました。そして、それに代わって銅鏡の需要が増えてきたものと思われます。つまりそれまでとは違った文化を持った民族が権力を持つようになった。このように、弥生時代から続く青銅鋳造物が銅鐸から銅鏡に代わっていったことが推察されます。 時代は下りますが、天智天皇は近江国おうみのくに・滋賀県の大津に都を置きましたが(661年)、この時多くの渡来人が琵琶湖周辺に配置されたということです。一例を挙げると、天智四年に百済の遺民400余人を近江国の神崎郡に住まわせ、天智八年には百済の男女700余人を近江国蒲生郡に移住させています。このことからも天智天皇は渡来系の人物だということが推察できますが、先に述べた女流万葉歌人・額田王は、この天智天皇の後宮として仕えたとされています。 一般的に、天智天皇と天武天皇、そして額田王とは三角関係にあったと解釈されていますが、李寧熙イ・ヨンヒ女史によると、額田王の歌を古代朝鮮語で読むと、額田王は嫌々天智天皇のところへ後宮として入ったとしか状態思えないということです。ですから、額田王が大海人皇子おおあまのみこ(後の天武天皇)と結婚をしていて、十市皇女とおちのひめみこをもうけていたにもかかわらず天智天皇の後宮に入ったのは、天智天皇と額田王が相思相愛だったのではなく、天智天皇が天皇の地位を利用し、額田王を差し出させたのだろうということです。天智天皇と天武天皇は兄弟ではなく違った民族であるという説もあります。また、新唐書の日本伝では親子とされています(参照)。 話を戻しますが、天智天皇が大津に遷都をして後、多くの渡来人を近江の国へ移住させていますが、歴史学者によると、このような集団的渡来の波は天智朝以前にも三度ほど大きなものがあったということです。 第一の波は、紀元前200年頃から紀元3世紀頃とされ、この時期、かなりの人々が日本へ移住してきて、稲作技術や鉄器文明をもたらしたとされています。3世紀頃の弥生時代の遺跡や遺物から、 朝鮮や中国との交渉が盛んに行われ、人々の往来がかなり頻繁だったことが伺われるようです。 次の波は、高句麗が南下して領土を拡大した5世紀前後に起きているということです。高句麗の圧迫をうけた百済や加耶諸国の要請に応えて、日本は4世紀末から5世紀の初めにかけて軍隊を派遣し、金官国を拠点に、東は新羅領内、西は旧帯方郡(ソウル付近)まで進軍して、高句麗と戦ったようです。この時期、朝鮮半島からは戦乱を避けたり、軍事援助の見返りとして、従来以上に多くの人と物が日本列島に渡ってきたということです。 第三の渡来の波は、5世紀後半〜6世紀はじめ、雄略朝から欽明朝へかけての時期かなり大きく打ち寄せたようです。特に雄略朝の頃には、「今来の才伎いまきのてひと」と 呼ばれる新技術をもった人々が朝鮮南部から移住してきたということです。この時期は古い渡来者に代わって新しい渡来者が各分野に進出してきた時代とされていて、この渡来の波の契機は、475年に高句麗が百済の都の漢城を陥落させた前後の戦乱にあるということです。百済は南の熊津に都を遷して、かろうじて国を再興したということですが、戦乱を避けて集団で日本列島に来住する者たちが多かったそうです。天日槍の集団の渡来は、須恵器の技術をもたらしたとされていますので、この説に従うと5世紀頃となります。 天日槍は近江おうみ・滋賀県の琵琶湖の西岸を北上し、若狭わかさ・福井県を経て但馬たじま・兵庫県北部に至り、そこで落ち着いたとされています。この天日槍の通ったルートには製鉄を行ったと思われる遺跡が多いのですが、このことは偶然ではないように思われるのです。滋賀県の古代製鉄炉の特徴は鉄の原料に鉄鉱石を使っていたということですが、出雲など他の生産地ではほとんどが砂鉄を原料にしていたとされています。日本では砂鉄が豊富にあり入手も容易なので、これを原料にするというのが一般的で、滋賀県の遺跡のように鉄鉱石を原料にしているというのは希です。滋賀県の遺跡の一つで、マキノ町にあるものは8世紀頃のものとされ、日本書紀の7世紀後半の記述には「水碓みずうすを造りて冶鉄かねわかす」とありますので、時代はほぼ符合していることになります。水碓というのは水車を動力とした臼か、あるいは水を加えながら砕くための臼かどちらかであるとされています。 琵琶湖の東側、伊吹山の東の麓にも大きな鉄鉱石の産地があり、ここは美濃国岐阜県になりますが、金生山という赤鉄鉱の産地があります。先に少し述べたように、天智天皇と天武天皇が争った壬申の乱の際には、この地でも多くの武器が作られたものと思われます。金生山にほど近い美濃国湯沐邑ゆのむらは大海人皇子おおあまのみこ(後の天武天皇)の私領地で、不破の郡家が置かれていた所です。吉野奈良県に隠棲していた大海人皇子が天智天皇の不穏な動きに対して戦いを挑む決意をし、準備のために駐留したのが不破の郡家ですが、ここで挙兵をし、武器を調達したとされています。この地に程近い関(現在の岐阜県関市)は後に刀剣の大量生産地となり、現在でも刃物の産地として有名な所です。 話を天日槍に戻しますが、天日槍が落ち着いた但馬の地でも鉄の生産が行われていたようですが、時代はずっと下りますが、江戸時代の中頃(1712年)に編纂された和漢三才図会では「熟鉄は出雲島根県東部、播磨はりま・兵庫県南部から出るものを上とし、備後びんご・兵庫県西部から広島県・ 備中びっちゅう・兵庫県西部から広島県及び奥羽おうう・東北地方、安芸あき・広島県のものがこれに次ぐ。伯耆ほうき・鳥取県・美作みまさか・兵庫県南部 ・石見いわみ・島根県西部及び日向ひゅうが・宮崎県の鉄またこれに次ぐものである。但馬たじま(兵庫県北部)の鉄は最下とされる。」と記されています。ここに記述されていることは、古代からそれほど変わってはいないと思われるのですが、この最悪の質といわれる鉄の産地に天日槍が留まったというのは何か理由があるのでしょうか・・ 淡路島は古事記・日本書紀に記されている国生神話では最初に生まれた(創られた)島ということになっています。次ぎに四国が生まれ、その次には九州、それから壱岐・対馬いき・つしま、そして最後に本州がが生まれます。その後にも小さな島々が創られますが、最初に淡路島が生まれたというところに、何か引っかかりを感じるのです。穿った見方をすれば、古事記、日本書紀を編纂した当時の権力者が淡路島に一目置いていたとも、あるいは畏れていたとも解釈できるのではないでしょうか。 淡路島には、古事記・日本書紀の記述を裏付けるように伊弉諾いざなぎ神社、別の地には伊弉諾神宮、それから、おのころ島神社、産宮神社があります。おのころ島は、イザナギ神とイザナミ神が天の沼矛ぬぼこを天の浮橋から海にさし下ろし、引き揚げたときに矛先からしたたり落ちた塩からできた最初の島とされています。こういった言い伝えは、古来から淡路島に住んでいたとされる海人あま族によって伝承されてきたということです。このことは専門家の間でも定説になっているようです。 海人族の系統は二つあって、一つは淡路島近辺の人々が淡路島に定着した系統、もう一つは南方系の神話や伝説を持った種族で、この系統が海人族の主流だということです。 先にも述べたように、平安時代中期に編纂された倭名抄わみょうしょうという漢和辞典では、「筑前国・福岡県怡土郡いとのこおり・那珂郡なかのこおり・ 宗像郡むなかたのこおりには海部郷あまのさとがあり、同国(筑前国)糟谷郡かすやのこおりには海人あまの統率者である阿曇連あずみのむらじの本拠地とみられる阿曇郷がある」また、「博多湾の志賀島しかのしまには阿曇連の祖神である綿津見わたつみ三神を祭った志賀海しかうみ神社が、筑前国宗像郡田島、大島、沖之島には宗像三神を祭る宗像神社があり、さらに筑前国那珂郡には住吉三神を祭る住吉神社がある」とあります。 古事記や日本書紀に登場する天日槍あめのひぼこは同書に記されているツヌガノアラシト(別名:于斯岐阿利叱智干岐(ウシキアリシチカンキ)と同一人物だという説があります。このツヌガノアラシトとは「角つのがある人」 が訛ったものだという説もあり、江戸時代中頃の国学者本居宣長もこのことについて考察していて、実の角にはあらじ、頭に冠りかぶりたりし物の角と見えたるなるべしと述べています。 淡路島と本州明石がもっとも近い海峡(明石海峡)には、古代には頭に鹿の角を被る風習をもった人種がいたということも聞いたことがありますが、このことなどもツヌガノアラシトと何か関係があるのかもしれません。先に紹介した倭名抄わみょうしょうに記されている福岡県にある博多湾の志賀島しかのしまの「志賀」は、鹿が転じていることも充分に考えられます。 因みに、インドには現在でも鹿の被り物を付けて踊る祭りがあるようです(参照)。 このことは、「日本の歴史その五」で述べたのことの裏付けとなるのかもしれません・・志賀島と云えば、漢委奴國王の金印が出土したことで知られていますが、中国との国交上重要な証の金印がなぜあのような辺鄙なところで出土したのかと訝る見解もあるようですが、今は辺鄙と思える所でも当時は重要な所であったとしても何ら不思議ではないと思うのです。特に海上交通が主だった時代では、志賀島のように湾の突端に位置する島は重要な役割を果たしていた可能性は充分にあります。 それから、北陸の福井県敦賀市にある気比神宮の 祭~である伊奢沙別命いざさわけのみことも天日槍と同一人物あるという説もあります。それを裏付けるように摂社に角鹿神社があります。 淡路島は上記の九州北部の志賀島と同様、国交上の重要な役割を果たしていたのは容易に想像できます。古事記では天日槍が新羅(朝鮮半島)から日本へ渡って来て難波に入ろうとしたが、そこの渡りの神がさえぎって通さなかったという記述がありますので、淡路島近海は軍事上重要だったとも云えます。一方同じ古事記の記述では、新羅の王子が七つの贈り物を持ってやって来て、それは但馬国に収められて常に神の物としたとあります。また、古事記と後に編纂された日本書紀に同じ記述があり、そこでは天日槍が艇はしふねに乗って播磨国・兵庫県南部の宍粟しさは・しそうに泊まった。そこに天皇の使者が遣わされて問いただすと、天日槍は日本に帰化したいと申し入れ、八つの貢物を献上したとあります。 これらのことから、歴史学者諸氏が指摘しているように、天日槍が日本に来るに当って、当時の権力者側の内部で意見が分かれたと見ることは妥当だと思われます。その狼狽ろうばいとも取れる権力者側の反応の理由は何だったのでしょうか・・ それに加え、播磨国風土記などの記述を見ると、地方の国(豪族)は朝廷側の思惑を迷惑がっているようにも思えるのです。 古事記、日本書紀に同じように記述されていることとして、朝廷側は天日槍に播磨国の宍粟邑と淡路島の出浅邑いでさのむらを与えようとしたが、天日槍はそれを断り、自分で気に入った所を探すと云い、宇治川を遡って琵琶湖に至り、さらに北上して但馬国(兵庫県北部)に落ち着いたとあります。これなども穿った見方をすれば、朝廷側の捏造で、天日槍を無理やり辺境の地に追いやったとも取れるのです。 天日槍は朝鮮半島の新羅しんら・しらぎから来た人物なのに、日本名で呼ばれているのはおかしいという意見も当然ありますが、古代に日本に青銅の鋳造技術、製鉄技術をもたらした技術集団の総称で、日本人によりそう呼ばれたということは考えられるようです。または、自ら日本人に対して名乗ったものかもしれません。 菊池山哉さんさい説によると、天日槍は新羅からの渡来人などではなく、古事記・日本書紀により抹殺されている、それ以前の日本の統治者の系統の人物であるとしています。また藤井輝久説では天日槍とニギハヤヒは同一人物であるとしていますが、ニギハヤヒは明らかに襲名の名前なので、この説はちょっと無理があるような気がします。どちらにしても、その古代の統治者も縄文時代、あるいは弥生時代に他国からやって来た民族であるわけですから、どちらの説も五十歩百歩ということでもあります。 それから、日本に渡来して権力を持った集団の要望により、技術者集団として招かれたことも充分に考えられます。先に述べたように、海人あまの統率者である阿曇連あずみのむらじの「阿曇」 という呼び名は地名にもなっていて、有名な所では長野県にある安曇野があります。この地名は筑前国糟屋郡かすやのこおりを本拠地としていた海人の統率者である阿曇連が東進したものだと思われますが、天日槍の東進と何らかの関係があったということも充分考えられます。 それから、滋賀県の琵琶湖西岸、現在の高島市を流れる安曇川あどがわの安曇はやはり阿曇連と何らかの関係があったものと思われます。滋賀県高島市拝戸に鎮座する水尾(三尾)神社で、古代史文書の一つである「秀真伝ほつまつたえ」が発見されているのも何か暗示的なものを感じます。また、水尾神社では猿田彦も祭られています。琵琶湖西岸は天日槍が通ったルートでもあり、もう少し北上した所には古代の製鉄跡があるので、ますます天日槍との関係は強くなってきます(参照)。 天日槍が日本に来た際に携えてきた七種の神宝(古事記では八種となっている)の一つに「出石いずしの小刀」というのがあります。その後、垂仁すいにん天皇は、これらの神宝を天日槍の曾孫である清彦すがひこから取り上げようとします。清彦はすぐに宝物を献上しましたが、出石の小刀だけは隠していました。天皇は小刀が無いのに気付き、清彦に差し出すように命じます。こうして献上させた宝物を天皇は宝庫に入れて大切にしていましたが、後に宝庫を開けてみると小刀が無くなっていた。清彦に尋ねると、昨晩私の家へ来たが、今朝また無くなっていたと答えます。天皇は出石の小刀の不思議な霊力を畏れて、それ以上は追求しなかったということですが、小刀は、飛梅のようにいつのまにか淡路島に行っていた。島の人はこれを神だと思って、祠を建て出石の小刀を祀った、とされています。現在、出石神社は淡路島の南東の端、生石鼻おいしのはなに鎮座しています(地図参照)。 杜山悠氏の説によると、天日槍は朝鮮半島の鉄製の矛を神の憑代よりしろとする民族の首長としています。以下、杜山氏の記述手法を摂り入れ、物語風に記述してみます。朝鮮半島から日本列島に渡っていった先達が、筑紫(九州北部)や大和(奈良県)で勢力を拡大していっている、という情報を耳にする度に、ヒボコは、自分も日本列島に渡り新天地を開拓してみたいという野望が湧きあがった。その頃、新羅国も周辺の小国家を併呑して拡張しつつあった動乱期で、ヒボコの故国安羅も新羅国に合併したばかりであった。そうした最中、新羅の首都慶州からスサノオが日本に渡った。ヒボコはそれに触発され、日本列島移住をただちに決断した。 (ここで気になることは、杜山悠氏はスサノオをヒボコと同時代の人物としていますが、これは納得できません。スサノオは天照大神の弟となっているので、時代は紀元前700年頃のはずです。ヒボコは須恵器を焼く技術をもたらしているので紀元400年頃となります。) ヒボコは、各部族の長と相談を重ね、海人あま族の首長であるキシ氏を船団長に、そして戦士隊長にはハタ氏を選出した。これらヒボコ集団は、まず九州北部の筑紫に駐屯し、そこで体制を整えてから瀬戸内海を東進したが、船団の一部は日本海側を東進し、但馬海岸(たじま・兵庫県北部)から越前海岸(福井県)に基地を設けた。ヒボコは瀬戸内海を東進した一団を率いて、まず播磨(兵庫県南部)に上陸したが、そこで出雲(島根県)駐留軍と伊和軍(地元播磨)と戦ったが敗退した。そこで、取り敢えず淡路島に上陸したが、そこはすでにヤマト王国の勢力下にあると知り、退却を余儀なくされた。次に河内(かわち・大阪)に上陸しようとしたとき、ヤマト国の奴隷となっていたアカル姫を救った。アカル姫は、ヤマト王国の初代国王であるジンムに討たれた河内の王ナガスネ氏の血をひく女で、このとき追われ身であった。ヒボコはアカル姫をかくまったまま淀川に入り、宇治川をさかのぼって琵琶湖に入り、アナ村に上陸した。 しかし、ヤマト王国の圧力がかかり、北の若狭わかさ・福井県にのがれ、さらに但馬たじま・兵庫県北部まで追いやられた。こうしてヒボコは最初に但馬の出石いずしに拠点を置いた。ヒボコはその地の養父郡やぶのこおりの豪族タジマ族の長マタオと会見して交渉、マタオの娘マエツミのムコとなった。 ヒボコの大集団には冶金、鍛冶、土木、木工、彫刻、農耕、須恵器焼き物、航海、漁業、柳細工、養蚕、といった専門職に携わる者、それに医師、絵師、楽人らも加わっていた。そこで、ヒボコはまず死野と云われていた生野の鉱山開発から始めた。ヒボコ集団の技術で但馬は次第に大国になっていき、西の出雲王国や南のヤマト王国を脅かすほどの勢力を持つようになった。その勢力の源となったのは、鉄製の武器と工具を鍛造する技術を持っていたことと、円山まるやま川流域を基地とする海軍力の強大さであった。ヒボコは第二夫人として、ナガスネノアカル姫を迎え、その同時期に但馬国を建国、初代の王となった。 ヒボコは強大な権力をもって、日本列島渡来の際の敗北の地である越前、近江、淡路、播磨の国々に但馬から逆流するようにヒボコ族を送り込んだ。同時に「矛を信奉する」宗教を流布したのは云うまでもない。こうしたヒボコ族の進入にヤマト王国の反撃はなかった。ヒボコの強大な勢力を恐れていたのは明らかだった。 このヒボコ族の遠征は本州西部の大国である出雲王国に及んだが、さすがに出雲王国とは実力は伯仲しており、間もなく出雲とは停戦協定を結んだ。その時の出雲の国王はオオムナチ大国主命、またの名をヤチホコといった。ヤチホコ八千矛とあるとおり、出雲国王もまた鉱山師を擁した技術集団の長であった。出雲と但馬両国の協定を知ったヤマト王国は、使者を派遣して、ヤマト王国と但馬王国との同盟を申し出た。ヒボコはそれを受け入れ、両者の会見場所に指定された和泉(いずみ・大阪)国の大鳥の浜に出向くことにした。妻のアカル姫はヤマト王国の信用できないことを理由にヒボコを押し留めたが、ヒボコは「ヤマトを恐れて出て行かぬなど、このヒボコの威光が地に落ちる」と但馬を発った。 ヒボコと従者二百余人はついに会見場所である大鳥浜に姿を現さなかった。ヒボコの身を案じたアカル姫はヒボコの後を追い、一行が皆殺しになっている大鳥の森に迷い込み、重傷で虫の息のヒボコを発見した。「ヤマトのために但馬王国は滅びる・・」ヒボコは無念そうに一言そう言って息を引き取った。アカル姫はヒボコの亡骸なきがらを背負い、延々と続く大鳥の浜の波打ち際を歩いて行った。アカル姫の足跡を静かな波が消していくように、日本の歴史からヒボコとアカル姫も消え去ったのである。 但馬国王ヒボコの墓はどこにもない・・但馬国王の二代目はヒボコの子モロスクが継ぎ、三代目はその子スガヒコ清彦が継いだ。スガヒコの時、ヤマト王国から、但馬王国神宝を献上するように命じてきた。この時には但馬王国の勢力は衰退しかけていて、スガヒコはこれを拒絶する勇気がなかった(参照)。そして、玉と剣と鏡とを献上した。この祭祀権の移譲は、同時に但馬王国が国家としての権威を失うことでもあった。但馬王国はこうして滅亡し、間もなく出雲王国もヤマト王国に降った。ヤマト王国はその後、王位継承の証に、但馬国から奪い上げた玉と剣と鏡を三種の神器として代々用いたのである。 明治時代の佐々木照山と木村鷹太郎の、天日槍についてのそれぞれの説を紹介しておきます。 まず佐々木照山の説ですが、天日槍に言及はしていますが、木村鷹太郎ほどは力を入れて述べてはいません。古代の日本語と 古代インドの聖典であるリグ・ヴェーダとは 同系であるという話から、古事記などに登場する神名に及び、その際には照山の得意分野である蒙古語と比較していきます。そのときに「タジマ」という音に触れ、 そこから但馬(たじま・兵庫県北部)に縁のある天日槍に話が及びます。照山の特徴でもあるのですが、その「タジマ」という音を持ち出すに当たり、 その関連として回々(フィフィ)という音について述べている時に「タジマ」が登場するのです。また、「フィフィ」はキリスト教のバプテスマという音から繋がってくるという風に、照山の碩学ぶりが存分に発揮されていくのです。また、これらが述べられている章は、先月述べた寒という字の分析が為されているところと同じ章なので、それに因んだ説明でもあるのです。そのあたりのところも興味深い話が多くあるのですが、省略して先に進むことにします。 天日槍の件は、照山の書き様を知っていただきたいと思いますので、そのまま引用します。旧字は現代漢字に直しておきます。 血の訓チより転じてタ行の清濁両音が、日本語人身の名称中いかに現はれ居るかを列挙すべし。 先ず、タにてはシタ(舌)あり、ハダ(肌)あり、マタ(股)あり、カタ(肩)あり。チにてはチ(血)あり、チチ(乳)あり、スヂ(筋)あり、ヒヂ(肘)あり、クチ(口)あり。ツにては俗語のケツ(臀)あり。テにてはテ(手)あり、ウデ(腕)あり、オモテ(面)あり。トにてはオウド(首)あり、ノンド(咽喉)あり、カガト(踵)あり、之を総称してカラダといひ、其形状をカタチといひ、その姿態をスガタといふ。皆是体のテイと同じく、身をテイ若くもしくはタといふより来れる也。去ればバテブスマは英語にして、バブテイズムなり。バブテイズムならば水身清(バテブスマ)に叶はずといふ杞憂は除かれたるなるべし。水身清(バテブスマ)を水体清(バブテイスム)としても、水にて身を清めることは即ち水にて体を清めると云に異なるなし。回々(フィフィ)にてもフイシユムといふべき処にタシマの語を用いざるにはあらず。今タシマとは回教裏の一分派名となりたれど、起源は矢張りバブテイスムのテイスムより来りしこと、猶マホメダンを 回子(ホイツ)といふことのフイシユムより来りしが如し。而して彼等を指して回子といふ他にホイフイといふ。バブのバイブイとなりしものなるべし。然らばバテブスマといひ、バブテスマといふは、相互共通に使用されたる時代ありて、現今の回教徒の称呼は、各々其の上半、若くは下半を把りとりて、略称に代用せるものといふを得べし。回教徒自らはウルスマサニと名乗り居れば太秦(タイシン)の二字にウスマサと訓するは、また此のウスルマサより出でたることを考へ得べし。 テイスムの転タシマは日本の但馬(たじま)という国名になりたれど、但馬の意義、日本語からにては解釈つかず。大陸より渡来せる 天ノ日穂子アメノヒボコを以てOmunofifikoとすれば、其住地として賜はりたる地名として初めて首肯せらるべし。日穂子はfifikoなり、回々子(フィフィコ)たるや疑いなし。 天ノ日穂子の肖像を見るに、剣の佩び方といひ、靴といひ、悉く回教徒の風俗と合す。 其の後にタチヒマモリ(タジマモリ・天日槍の子孫とされる)あり。此地より出でて、トキヂクのカグのコノミ(木の実)を求む。トキヂクは裏海のこと也。後、大食タイヂクとしてアラビヤの国名となる。 一方の木村鷹太郎の説にも驚いてしまいます。 天日槍(アメノヒボコ)は古代ギリシャの天文学であるヒッパーコス(ヒッパルコス)のことであるというのです。 まず、ヒッパーコスという名前の考察から入るのですが、そこでは、ヒッパーコスの語尾「ス」を落とすとヒッパーコとなり、さらに簡略な発音をするとヒバコとなる、つまりヒボコとなる。これは照山以上の牽強付会ぶりともとれますが、それはさておいて、もう少し鷹太郎の説に耳を傾けてみます。 日本の天日槍とギリシャのヒッパーコスが同一人物であることを証明するために、鷹太郎は三つの考察をしていきます。まず、古事記・日本書紀に記されているヒボコの生誕地の地理とヒッパーコスのそれを符合させ、次に、 ヒボコの遍歴地理がヒッパーコスのそれと合っていることを考察。最後に、ヒボコが日本に持ってきたとされる宝物がヒッパーコスの天文星座図であることを考察していくというものです。 天日槍は古事記・日本書紀では新羅の王子ということになっていますが、鷹太郎はこの新羅しんら・しらぎは、小アジア(アナトリア半島)のビツニア(Bithynia)の黒海西岸にあるScyllaci(シラキ)という国のことであるとしています。そして、古事記に記述されている 阿具沼はビツニアにあるアスカニア湖のことだというのです。そのあたりの鷹太郎の書き様を見てみます。旧字は現代漢字に直しておきます。 ヒッパーコはビツニア国ニカヤ(Nicaea)の人なり。ニカヤはアスカニヤ(Ascania)湖畔の都市にして、この湖水は古事記の所謂「阿具沼」なるが如し。何となれば、アスカニア同意義の別語をAgoと謂ふ(いう)を以つてなり。然らばアスカニアなる湖水はアゴ沼にして、「アゴ」は「阿具あぐ」の発音に転ずべきなり。此くて (一)ヒッパーコは日矛ひぼこと其発音を同うし (二)アスカニア湖は阿具沼と其意義を同せると、 (三)ビツニア国はシラキ人の国たる如きに考ふる時は、又た是れ新羅なるを断定して誤り無きが如し。 木村鷹太郎は、日本書紀に記されている新羅の天日槍と、任那みまなの蘇那曷叱知ソナカシチ、それから別書に登場する意富加羅大加羅・おおからの于斯岐阿利叱智干岐(ウシキアリシチカンキ 又の名をツヌガアラシト)を混同する説があることに言及していますが、この説は現在でも支持している歴史学者もいるようです。 先に紹介したように、鷹太郎の説では、天日槍はギリシャの天文学者であるということですが、ということは、日本書紀に記されているヒボコの出身地の新羅はギリシャということになります。では、ヒボコが渡った国である日本はどこかというと、エジプトということになるのです。つまり、当時の日本は現在のエジプトにあったと鷹太郎は云うのです。ところが、鷹太郎の主張に耳を傾けていると、なるほどと納得してしまうのです。それほど強い説得力があるのです。そのあたりを原文で紹介しておきます。例のごとく旧字は現代漢字に直しておきます。 天日矛、始めに艇に乗りて播磨国はりまのくに・兵庫県南部に泊り、宍粟しそうの邑むらに在りと東亜日本の地理を以ってせば、播磨国に碇泊とは何ぞ唐突不思議なる。且つ東亜日本の宍粟の邑は、意うおもうに海岸に非ずして但馬の国境に偏したる地なり。決して碇泊所に非るなり。人或は弁解して云はん、日矛の碇泊は播磨海岸なりと雖いえども、其居りしは宍粟の地なりと。然と雖未だ帰化の許可及び住処の指定をも得ずして決して随意に海岸より内地に入て住居す可きに非ず。又た東亜宍粟は無意味の地なり、日矛何ぞ内地無意味の宍粟邑に進入することあらんや。然りしかりと雖、天日矛其住はんと欲する地に行き得るの許可を得て、菟道河宇治川・大阪湾に注ぐを北に泝さかのぼりて近江国おうみのくに・滋賀県吾名あな邑に入るには、播磨の宍粟邑より如何いかなる路を取り来たりしか。若し旧来の如く極東日本地理として考へんか。 菟道川を北に泝れりと謂(い・言)ふと雖、 難波なにわ・大阪及び淀河付近は之を如何にせしか。且つ宇治以北の宇治川は決して泝り得べき河に非るや。 実地地理を知れる者には極めて明白なることたるなり。或は川に「沿ひて上る」と解せんも、「沿ふ」と「泝る」とは意味を異にし、又た日本地理に於て其如きは迂回極まる道程たるのみ。 彼れ(日矛)近江に入れりとあり雖、一言だに琵琶湖に言ひ及ばざるは奇なりと謂うべし。且つ其行きし所の近江の吾名の村とは果して何処ぞ。又た丹波(たんば・兵庫県北部)を経由せずして 但馬たじま・兵庫県北部に入れりのことも不合理にして、日本地理を以ってしては到底説明すべからざるなり。(当時は、但馬は丹波国の一部でした) そこで鷹太郎は、日本書紀に記されている天日槍の行動の地をエジプトにすると、日本の地では不具合なことも明瞭に説明できると云うのです。 日本書紀での難波と播磨はスエズ湾北部の地であるとし、近江国の吾名あなの邑むらはヘリオポリスのこととしています。鷹太郎によると、この地は別名オン、或はアヌと呼ばれ、アヌはアナ(吾名)に転じ、この地一帯をEumenis(ヨウメニス)の国と云っていたということで、ヨウメニスはオーミ(近江)に転化したというのです。 それから、日本書紀で天日槍が近江から若狭わかさを経て但馬たじまに至ったというのは、若狭はエジプトの地Acanthus(アカンサス)の訛なまりではないかとし、但馬(たじま・兵庫県北部)の語源はThalassium(タラシウム)であるとしています。但馬は「ただしうま」とも読め、これはタラシウムの転化であるとしています。また、タラシウムの「ラ」音を無声にするとタシウムとなりタシマとなるともしています。 さらに、西洋諸伝によるヒッパーコ(ヒボコ)のアレキサンドリアに至る話は、日本書紀の記述を裏付けるもので、近代地図でもアレキサンドリアの東部にEdku(イヅク)という地とイヅク湖があるが、これはギリシャ語ではイヅシ(出石)となるということです。では、ヒッパーコスの生存していた時代はいつか、ということについては、当時の諸々の説から紀元前160年から125年頃だとしているのです。 最後に、ヒボコが日本に持って来たとされる宝物がヒッパーコスの天文星座図であることを考察しているところを紹介しておきます。 鷹太郎は、日本書紀に記されている七種の宝物と古事記に記されている八種の宝物すべてを考察しています。まず日本書紀の七種の宝物は、 一:羽太の玉はぶとのたま 二:足高の玉あしたかのたま 三:鵜鹿々赤石の玉うかかあかしのたま 四:出石の小刀いづしのかたな 五:出石の鉾いづしのほこ 六:日の鏡、 七:熊の神籬くまのひもろぎですが、鷹太郎は「鵜鹿々赤石の玉」は二種の玉が混一したもので、本来は八種であるとしています。 次に古事記に記されている八種の宝物は、一と二:「珠二貫たまふたつら」、三:「振浪比礼なみふるひれ」、四:「切浪比礼なみきるひれ」、五:「振風比礼かぜふるひれ」、六:「切風比礼かぜきるひれ」、七:「奥津鏡おきつかがみ」、八:「辺津鏡へつかがみ」ですが、鷹太郎はこの内の「珠二貫」の一方は、他の六種を総称しているもので、一種とし、全体では七種とするべきとしています。 それでは、最初の日本書紀の「羽太の玉」については、羽太はぶとはギリシャ語のハブトで「車馬の御者」のことだとし、これをラテン語ではアウリガと云うので、星座のアウリガであるとしています。「羽太の玉」の玉はギリシャ語のタマで星座・星宿を意味しているので、「羽太の玉」はアウリガ星座となるということです。 次に「足高の玉」の足高はギリシャ語のアシタカ、ラテン語ではアカリウスでアカリウス星座(水瓶座)のこと。 「鵜鹿々赤石の玉」は「鵜鹿々の玉」と「赤石の玉」の二種とし、鵜鹿々うかかは発音変化の法則から、Ophiuchus(オヒアカ)のOがウに転じ、phiu(ヒヤ)はカ行になり「カ」一音に縮まったものであるとしています。つまり、オヒアコス星座(ヘビ使い座)であるとしています。 「赤石の玉」は二説を挙げ、鷹太郎自身どちらであるかまだ決めかねていると述べています。それは、弓を意味するラテン語「アーカシ」に因んだサギタリウス星座(射手座)か、ギリシャ神話に登場するアーカシ(アルカス)に因んだ小熊座だとしています。四つ目の「出石の小刀」と五つ目の「出石の鉾」は、オハリオン(尾張)星座(オリオン座)の右手に持っているのが「出石の鉾」で、腰に差しているのが「出石の小刀」であるとしています。その出石はギリシャ語のイヅシで「直」の意味があるということで、右手に持っている鉾は直状で、腰に差している小刀も直刀であるとしています。 次の「日の鏡」は神鏡の一種である「日前ひざきの鏡」と同じものであるとしています。日前は日高と同義で、ギリシャ語のヒダカのことで、源泉、あるいは酒杯の意味があり、クラテル星座(コップ座)のことであるとしています。「熊の神籬」は大熊座のことで、神籬ひもろぎはギリシャ語のヒロロギが訛ったもので星座のことであるとしています。 次に、古事記に記されている天日槍が持ってきたとされる神宝についての、木村鷹太郎の説を見てみます。 まず、珠二貫たまふたつらとは「珠」のことでも星座のことでもなく、八種の内の六種の宝(星座)の総称「フタツラ」であるとしています。フタはギリシャ語のプチアが訛ったもので、ギリシャ神話に登場するアポロンのことだとし、鷹太郎はこのアポロンは日本で云うところの熊野神のことだとしています。ツラはギリシャ語タラスサが訛ったもので船のこと、つまりフタ・ツラとはギリシャ語でプチア・タラスサで「フチア船」のことであるとしています。そして、このフチア船は熊野船、あるいは古事記のホムチワケの話に登場する二俣小船のこと、又、仁徳天皇の段に登場する枯野丸に当たる船のことだとしています。そして、星座では船の一部を象ったアルゴ・ナビスに当てています。 残りのうち、「振浪比礼なみふるひれ」、「切浪比礼なみきるひれ」は、四つに分けられたアルゴ・ナビス星座の「振・フル」は船体、「切・キル」は竜骨のこと、「浪」は文字どうり海の波のこと。「比礼・ヒレ」は神聖を意味するギリシャ語、ヒエロスのことであるとし、また、神籬ひもろぎと同じ意味だとしています。 「振風比礼かぜふるひれ」、「切風比礼かぜきるひれ」も同じことで、「浪」が「風」に入れ替わっているだけです。 「奥津鏡おきつかがみ」と「辺津鏡へつかがみ」は当時の船の舳先(へさき・船の前方部)と艫(とも・船の後方部)に付けられていた鏡のことであるとしています。アルゴ・ナビス星座は船の一部しか含まれていないが、艫部に鏡があったのは明瞭なことであると、鷹太郎は書き添えています。 以上のように、古事記に記されている天日槍の神宝は、アルゴ・ナビス星座であるとしています。 サルタヒコについて 日本の歴史について Home |