日本の歴史について その八 2008年3月に淡路島にある五斗長垣内遺跡(ごっさ・かいと遺跡・弥生時代後期AD50年〜200年)の現地説明会に行ってきましたが(参照)、同じ垣内と書いて「かいち」と読む遺跡が京都府の園部にあるということを知りました。15年ほど前に、園部にある博物館には行ったことがあり、その地の古墳から出土している物は貴重なものが多いのに驚いた記憶がありますが、中でも勾玉はトップクラスのものが出土しています。その勾玉が出土したのが垣内かいち古墳だったのです。ということで、先日京都に行くついでに、もう一度確認のため博物館と垣内古墳(4世紀末〜5世紀)に足を運んでみました。 京都府南丹市園部町内林にある垣内かいち古墳跡。現在は神社になっている。 これは垣内古墳から出土した勾玉。 糸魚川産の翡翠で作られていますが、石質は宝石級です。 上の銅鏡はかの有名な三角縁神獣鏡。右上に見えるのは青銅製と思われる鏃やじり。 鉄剣も立派なものが多く出土しています。 須恵器の台付き子持ち壺、ここを参照ください。 大阪湾を中心とした地域、淡路、播磨、摂津、河内、和泉、それからその外側にあたる大和、山城、近江、丹波といった地域は、古事記、日本書紀の時代前後は大激動の時期だったようです。特に近江遷都のきっかけとなった壬申の乱は、朝鮮半島からの新たな移住者が日本を征服することになる大事件だったわけです。淡路島の黒谷の黒は鉄の象徴と考えられます。これは私の憶測ですが、垣の内側で鉄の武器(鏃や剣)が作られていたということも考えられます。軍事施設だから囲う必要がある。そうすると、征服した側とか、された側というのはあまり関係がないのかもしれません。京都の園部の垣内かいち古墳近辺には黒谷という地名はなく、垣内という地名もありません。垣内古墳は今では厄神宮となっていますが、地名は「坪の内」となっていますから、垣内と何らかの関連があるのかもしれません。淡路島の垣内かいと遺跡がある黒谷と同じ二つの地名があるところが大阪府八尾市にあります。垣内かいちと黒谷という所です。地図参照垣内という地名がどれくらいあるのか、ちょっと調べましたが、やはりほとんどが近畿に集中しています。近畿以外では、三重県に多く、他には広島県、愛媛県、愛知県、岐阜県、石川県、新潟県があります。広島県、愛媛県、三重県、愛知県以外は京都の影響を受けているところです。 大阪府門真市垣内町かきうち 大阪府岸和田市小垣内おがいと 大阪府茨木市蔵垣内くらかきうち 大阪府高槻市二料垣内にりょう・かいち 兵庫県相生市垣内町かきうち 兵庫県小野市には寺垣内、中ノ垣内、新宿垣内、 平ノ垣内、内垣内東垣内、向垣内、西ノ垣内、原ノ垣内、 北ノ垣内と多く見られます。 小野市の小野は、古代に大きな勢力を持っていた小野氏と関係があるものと思われます。 兵庫県龍野市中垣内なかがいち 兵庫県西脇市大垣内おおがち 兵庫県姫路市垣内かいち北町、垣内中町、垣内西町 、 垣内東町垣内本町、垣内南町、奥垣内おくがいち 京都府南丹市園部町竹井北垣内 京都府南丹市園部町天引洞垣内ほらがいち 京都府南丹市園部町南大谷奥垣内 京都府南丹市園部町南大谷鳥垣内 京都府南丹市美山町静原垣内かきうち 京都府南丹市八木町神吉垣内 京都府南丹市八木町山室垣内やまむろ・かいち 京都府亀岡市河原林町河原尻綾垣内 京都府船井郡京丹波町和田垣内かいち 京都府京都市右京区北垣内がいち町、垣ノ内町かきのうち 京都府京都市右京区太秦うずまさ垣内町かきうち 京都府京都市右京区京北五本松町垣内 京都府京都市右京区嵯峨水尾北垣内町がいち 京都府京都市左京区萩ヶ垣内町はぎが・かきうち 京都府京都市山科区垣ノ内町かきのうち 京都府城陽市久世南垣内 京都府久世郡久御山町林垣内はやし・かきうち 京都府相楽郡精華町柘榴垣内ざくろ・かきうち 京都府 宇治市 菟道東垣内とどう・ひがしがいと 京都府八幡市やわた岩田辻垣内つじがいと 奈良県橿原かしはら市出垣内町でがいと、下垣内しもがいと 奈良県大和郡山市西野垣内町にしのがいと、 野垣内町のがいと、吉野町窪垣内くぼがいと 奈良県生駒郡垣内 奈良市法蓮東垣内町 奈良県吉野郡十津川村玉垣内 奈良県天理市北垣内和歌山県和歌山市大垣内おおがいと、 田ノ垣内たのかいと、 和歌山県すさみ町柿垣内かきがいと 和歌山県那智勝浦町田垣内たがいと、日置川ひきがわ町、 竹垣内たけがいと、美里みさと町、蓑垣内みのがいと、 桃山町垣内かいと 和歌山県紀ノ川市桃山町垣内かいと 和歌山県 西牟婁郡すさみ町佐本西栗垣内 和歌山県那賀郡桃山町垣内かいと 三重県伊賀市平野蔵垣内くらがいと 三重県いなべ市北勢町垣内かいと 三重県津市白山町垣内かいと 三重県津市殿村字鍛治屋垣内 三重県津市美杉町飯垣内 三重県津市雲出本郷町浜垣内 愛知県豊田市下佐切町平七垣内へいしちがいと 愛知県豊田市東萩平町北垣内きたがいと 岐阜県高山市国府町木曽垣内がいと 岐阜県高山市国府町漆垣内うるしがいと 石川県羽咋市垣内田町かくった 新潟県岩船郡山北町垣之内かきのうち 広島県三原市八幡町垣内やはたちょう・かいち 広島県庄原市殿垣内町とのごうち 愛媛県南宇和郡愛南町垣内かきうち 愛媛県宇和島市三間町土居垣内どいかきうち などがあります。 地名研究家の池田末則氏によると、昭和30年代の調査による奈良県内の、垣内及びその字が含まれる地名は5000以上存在し、小字こあざの垣内は千数百例あるとしていますが、その後の行政区画の変更などにより、現在ではかなり減っているものと思われます。 古代遺跡としては 兵庫県淡路市黒谷五斗長ごっさ:垣内遺跡かいと弥生時代 兵庫県加西市:中条垣内遺跡かきうち弥生時代中期〜平安時代 兵庫県宝塚市:山本北垣内遺跡 兵庫県三田市さんだ高次:高次北ノ垣内遺跡 兵庫県姫路市飾磨区英賀:辻垣内遺跡つじかきうち 京都府南丹市園部町:垣内古墳かいち古墳時代 京都府城陽市平川古宮北垣内:北垣内遺跡きたがいと弥生時代以降 奈良県橿原市五条野町:五条野内垣内遺跡うちがいと 藤原京時代(694年〜710年) 奈良県大和郡山市:横田堂垣内遺跡かいと奈良時代(8世紀) 奈良県大和郡山市:田中垣内遺跡たなかがいと古墳時代 奈良県宇陀郡榛原町上井谷:高田垣内古墳群 愛知県豊田市時瀬町:南垣内遺跡かきうち縄文時代 愛知県賀茂郡:万場垣内遺跡 縄文〜平安時代 三重県津市:窪田大垣内遺跡おおがいと奈良時代以降 三重県津市美杉町丹生俣北垣内:北垣内遺跡 三重県松阪市櫛田町北ノ垣内:北ノ垣内遺跡きたのがいと 弥生時代〜古墳時代 三重県松阪市清水町綾垣内:綾垣内遺跡あやがいと中世 三重県松坂市豊原:琵琶垣内遺跡びわがいと弥生時代〜古墳時代 三重県津市城山:高茶屋大垣内遺跡おおがいと古墳時代〜平安時代 岐阜県下呂市:深作裏垣内遺跡うらがいと 岐阜県高山市:岩垣内遺跡いわがいと縄文時代 岐阜県高山市:牛垣内遺跡うしがいと 岐阜県吉城郡国府町:南垣内遺跡 岐阜県高山市国府町漆垣内:漆垣内遺跡うるしがいと縄文時代佐賀県佐賀県藤津郡嬉野町:中尾垣内遺跡などがあります。 さらに詳しく知りたい方は遺跡ウォーカーサイトで「垣内」で検索してみてください。岐阜県には地名としての垣内は現在では見当たりませんが、古代遺跡に垣内と付けられているものがあるというのは興味深いことです。中でも垣内という字が含まれる地名が多い兵庫県小野市にある古墳のなかには、質の高い勾玉が大量に出土している所があります。その古墳の所在地は旧・小野村奥村字居垣内と云い、ここも垣内という字が含まれています。 これが奥村天神にある古墳から出土している玉類の一部ですが、硬玉(翡翠ひすい)の勾玉は26点あります。こういった例は他の古墳では見られないということです。翡翠の石質も宝石級です(小野市史から部分転載:東京国立博物館所蔵)。このことから、古墳時代の小野市近辺には大きな勢力を持った豪族がいたものと思われます。小野市は古代の地名の播磨に含まれますので、播磨国風土記に登場する天日槍あめのひぼこと関係があるとも云えます。ですから、この古墳の埋葬者に何らかの関係があるかもしれません。 垣内(かいち、かいと、かきうち)という地名は古来から存在していますが、現在でも見られるものの中には様々な時代に付けられたものがあるようです。垣内という地名について述べられているものはそれほど多くはなく、現在でも目にすることができるものとしては、江戸時代末に編集された碩鼠漫筆、民俗学の祖・柳田國男の地名の研究(昭和時代初め)、それから野村傳四による「大和の垣内」 (昭和時代初め) くらいでしょうか。その他に、歴史に関する叙述で触れられているものには、矢切止夫(昭和時代後期)によるものがあります。地名研究家の池田末則氏によると、奈良県桜井市戒重かいじゅうという地名は戒外かいげ、あるいは戒成かいなりという地名の「戒」と同義ではないかとし、戒外はカキウチ→カイチ→カイジュウと、戒成はカキナ→カイナイ→カイナリと転訛したものであろうとしています。また、戒外はカイトとも読むともしています。江戸時代後期に菅江真澄により書かれた旅日記では、信濃路で目にしたことが記されているのですが、御嶽山おんたけさんの麓のある所では、疫病に罹った人があるとその家の周囲に垣根をして、親類縁者でも決してその中に入れないという風習があったと記されています。このように、垣根で囲うということは、むやみに人が入れないようにする 目的がありますが、その目的は様々あることは容易に想像できます。まず考えられるのは、何か大切なものを自分だけで所有する、 あるいは一族で所有する場合でしょうか。時代によっては、奈良県に多く見られるように環濠垣内かいととし、身を守る場合もあったでしょう。矢切止夫によると、古代朝鮮の騎馬系高麗・新羅の官命ではカイは族長をさすということです。また、垣内はカイト、カイチ、カイツと読み、日本を征服した騎馬系高麗・新羅民族の非農耕地帯の集落 のことをさすとしています。時代が下ると、藤原時代の王朝備兵である百済帰化軍団によって、それまでの日本住民が信州へ追われたり、強制移住させられ収容された当時の庶民の地域をカイチと呼んでいたと説明されています。柳田國男の「地名の研究」では、 垣内は古くはカキツと唱えていた。それがカイツとなりカイトとなったので、所によってはカイチと聞え、又は方言でカクチとも発音したかとも思う。伊勢(三重県)、近江(滋賀県)、美濃(岐阜県)などはカイト又はカイドであったと見えて、貝戸、海道、皆渡、開土、外戸などの字が当ててある。三河(愛知県)の北部などはカイツであったと思しく、御所貝津、殿貝津の類がある。伊賀(三重県)では旧村名に二三の界外があって今はカイゲと呼んでいるが、もともとは外の字をトと読んだのではあるまいか と記述されています。 碩鼠漫筆から「かいと」について書かれたところを紹介しておきます。 読み難いと思われる箇所は適宜書き変え、部分的に省略している箇所もあります。 上野国こうずけのくに(群馬県)に物しける時、山田郡高津戸といふ山里に宿りて在りしに、村人等うち集いて何やらん物語らふ詞に「島ガイト」、「夷ガイト」、「柿の木ガイト」など云ふことの聞えければ、ふと耳にとまりて何云ふぞと問へるに、みな村内の小地名にて侍り、文字には谷戸かいとと書くと答えぬ。かく聞きしより猶考ふるに、同国勢多郡新川村、善昌寺所蔵の応仁二年旧記書継に、その寺の四至を記したる中に「青木戒度」とある。この戒度もまたカイトなるべし。又同国山田郡高沢村、真蔵院といふ修験者の許に、天正十八年に書ける檀那分割渡扣帳といふありて、是にも「それのカイト」、「くれのカイト」といふ地名数多見えたり。又友生白井広蔭云へらく、「我上野国白井より沼田に越ゆる街道なる上白井村境内に、 大貝戸とも大谷戸おおかいどとも云ふ所あり。 西は子持山の麓、東は利根川の切岸高く、道幅十間(約18m)ばかり南北七八丁の間、農家群立ちたる畑地なり。また白井境内に叺谷戸かますがいとといふあり。 この地は大道より横に入りて袋の如く行止まりたる所なり。この地近郷にカイトの地名勝計しがたし。それが中にも彼大貝戸はことに道法長ければ、大字おおあざを副へて云へるなるべし。すべてこの谷戸かいとどもの地理は、山と川との間をも又双方高くて凹なる所をも云ふ。必ず山間の道狭き所にも限らず。猶、群馬郡玉村あたり、緑野郡藤岡あたりにても同じ字やなりと云へり。 さて、かく国中に多き地名なる事を思へば、この上野国こうずけの方言かと思へど、猶他国にても呼ぶ名と見えて、駿河国志太郡小持坂村の医家某所蔵の天文十六年(1547年)の文書にある「藪街途」もヤブカイトなるべし。また同国安倍郡内牧村の小地名にカナガイトと云ふありと国人云へり。かかれば諸国に呼ぶ名にして、カイは間の義(意味) 、トは処かと思はるるを猶不審の由なきにしもあらず。さるは古事記伝本居宣長著巻二十九、伊勢国熊煩野御陵の條に、白鳥塚のほとりの地に王子田、宝冠塚など云ふ字あざなもあり。 又七八町許ばかり北方に御所垣内かいどと云ふ田地の字も有て、土人鍬くわを入れなどすれば祟りありと云伝へたる地などもあるなりと云へり云々。法隆寺良訓補忘集(享保年間書記・1716年〜1735年)に大垣内家数八十軒余とある。これは按かんがふに、大加井戸、大垣内の文字は異なれど、こは同村にて大カイトなり。大和志の属邑むらの條に大垣内ありて、大加井戸のなきをも思ふべし。又、駿河国志田郡内瀬戸村境内に殿垣内とのかいと、下木戸、楯木など云ふ小地名あるを思へば、垣内かいつの転訛とも云ふべきが如し。但し、間処かいとにもせよ、又、垣内にもせよ、曽禰好忠集の歌「山里はかいとの道も見えぬまで秋の木の葉にうづもれにけり」とある「かいとの道」の意には協かなはぬにあらず。 淡路島の北西部に位置する、兵庫県淡路市黒谷くろだに五斗長ごっさ地区にある垣内かいと遺跡は、弥生時代後期(1世紀前後)の遺跡だということですが、その時代背景と 淡路島北部の当時の役割とでもいうようなものを想像することができれば、「垣内かいち・かいと」という地名、あるいは遺跡名を付けられた意味が判るかもしれないと思ったりもするのです。ということで、1世紀頃の弥生時代のことが述べられているものに様々目を通してみたのですが、おおまかな流れは掴むことができるものの、なかなかイメージが浮かんでこないのです。 歴史家の中には、古事記や日本書紀の記述だけでは信頼に足るものではないと主張する人もいますが、一方、先代旧事本紀せんだいくじほんぎや桓檀古記かんだんこき、秀真伝ほつまつたえ、その他、各風土記などの歴史書は偽書だと主張する歴史家もいます。そう言ってしまえば、古事記や日本書紀の方が時の権力者の都合のいいように書かれた、もっと怪しい偽書とも云えるわけで、どちらも五十歩百歩なのです。ですから、これらの記述と考古学上の発掘資料とを比較していけば何か見えてくるものは必ずあると思われるのです。そうしているとここでも、その陰に、これまで何度もこの随想で取り上げてきた天日槍あめのひぼこや猿田彦がちらちらと見え隠れするのです。 鉄が日本列島に持ち込まれたのは縄文時代後期頃の九州北部と云われていますが、最古の地域は大分県の国東半島(紀元前700年頃)という説もあります。それを持ち込んだのはおそらく東南アジア、あるいは現在の中国雲南省あたりを経て日本にやってきた人々だろうと思われます。その一つに、以前にも述べたように徐福伝説があります。弥生時代に日本列島を征服したのも、朝鮮半島などを経てやってきた鉄の武器を持った民族だと思われますが、この民族集団が日本列島を移動したルートは天日槍が移動したと伝えられているルートと重なっているのです。北部九州から徐々に西に移動し、滋賀県、三重県あたりまで進行しています。その移動は徐々に行われたものと思われますが、当時はアジア全体が激しい戦乱の時期だったようで、特に紀元前5世紀の中国春秋時代の戦乱の際には、その難を逃れて海上ルートで日本にやってきた民族も多かったようです。 紀元前1世紀頃には中国の江南から北九州沿岸地域にかなりの移住者があったようですが、これも戦乱後の前漢朝の支配から逃れるための移住だったようです。 因みに、この時期に前漢は鉄製武器の輸出解禁をしているということです。このように様々な民族が入り乱れると、当然その民族集団の間で覇権争いが起こっても何ら不思議はないわけで、そのようなことはその後も繰り返し起こったことは容易に想像できます。時代は下りますが、聖徳太子伝説の元になったのも、また古事記、日本書紀を編纂した民族、つまり壬申の乱で勝利した一族(天武天皇)が日本を平定したのもその一つの事件にすぎず、その後、藤原時代を築いたのもまた別の民族集団だったことも充分にあり得るのです。専門家の調べによると、朝鮮半島を経由した北アジア人の日本列島への渡来は、弥生時代(紀元前3世紀説)から7世紀頃までのおよそ1000年間に100万〜150万人に達したということです。これまで発見された頭蓋骨の形態から推定した縄文人対弥生人の人口比は近畿で1:9、中国地方2:8となるということです。 淡路島北西部にある垣内かいと遺跡は1世紀前後の時代ということは確かなようですが、この時期の特徴として、九州北部から瀬戸内海沿いに高地性集落が密集していることが挙げられます。淡路島の垣内かいと遺跡も海沿いにある高地にあります。その他の地域としては出雲と但馬、若狭に数ヶ所と琵琶湖の西岸に4箇所ほど確認されていますが、専門家の見解としては、これら高地性集落は軍事施設、あるいは眼下の交易路を見張る監視施設、または祭祀を執り行なう聖域という説があります。ですから、古代に垣内と呼ばれていた地は高地性集落と関係があるのかもしれません。古事記での天日槍の記述で、「妻が親元へ帰ると言い残し、ひそかに小舟に乗って難波(なにわ・大阪)に逃げたので、天日槍はそれを知り、後を追ったが難波津の神(海神)が行く手を阻んだ・・云々」とありますが、このことも当時の瀬戸内海の事情を物語るものではないでしょうか。書かれてある内容は信用できないとしても、その背景は残っていたりするのではないでしょうか。おそらく瀬戸内海は常時見張られていたというのは、上記のように、当時の遺跡などから推察できると思うのです。高地性集落は現在確認されていない遺跡を含めるとかなりの数に上ると思われます。軍事施設や監視施設だったということは充分にあり得ると 思われますが、もしそうだとしたら、何らかの通信手段が必要となります。この通信手段のためにも高い所の必要性があったとも考えられます。 時の海洋民族は海洋上では鏡を使って通信し合っていたという説もありますが、この通信手段は高地どうしなら陸地でも可能だと思われます。日本各地に存在する鏡山という山は鏡による通信拠点という説もありますが、この説はあながち否定できるものではないような気がします。因みに日本に高地性集落が多かった時代と同時代の中国前漢時代の銅鏡は鏡面が凸面になっているものが多いとされています(参照)。凸面鏡は物を映した場合、大きく映りますが、光を反射させても広い範囲を反射できます。交差点に設置されているカーブミラーが凸面になっているのと同じ原理です。カーブミラーの反射光は広い範囲に遠くまで届きます。 弥生時代後期としては国内最大級の鉄器工房跡が発見された淡路島の垣内かいと遺跡は、島の東北部、海岸から2kmほど山間に入った所にあります。 標高は150m前後で、瀬戸内海明石海峡を望む所に位置しています(地図参照)。この遺跡の時代は1世紀前後ということですが、この時代は弥生時代から古墳時代への移行期でもあり、また、かの有名な邪馬台国やまたいこくが存在していたとされる時代の少し前でもあります。新聞報道でも、この垣内遺跡の鉄器工房と邪馬台国とは 関係があるかもしれないと書かれていましたが、私はそれはないと思っています。現地説明会での説明担当者は、邪馬台国との話題を避け、ここで作られた鉄器は地元で消費されたのだろうと説明したという報告もありますが、それもまた極端な話で、地理的に云って、当時の淡路島は重要な位置にあり、時代は倭国の大乱の時期でもありました。ですから当時の最先端の鉄の武器は大量に必要だったはずです。ですから、そこで作られた鉄製品は海運によって、主に紀伊半島の付け根、現在の大阪湾に運ばれていたものと思われるのです。大阪平野を東に一山越えれば奈良県の大和の地です。ここは後にヤマト(大和朝廷)という、中央集権国家の中枢となる国となります。邪馬台国畿内説の学者さんは、ここを邪馬台国とするのは当然でしょうが、それは有り得ないと思います。邪馬台国に話しが及んだので、もう少し続けますが、最も有力な説は、今、映画化されている、「まぼろしの邪馬台国」の原作者、故・宮崎康平氏の説だと私は思っています。ですが、宮崎氏の説では、邪馬台国は島原半島ということになっていますが、それは地理的にちょっと無理があるのではないでしょうか。私はその対岸の九州側、熊本市−玉名市−山鹿市−菊池市一帯ではなかったかと思っています (地図参照)。加治木義博氏は1970年代に、熊本県八代市説を発表していますが、この説も有力だと思います。 淡路島の垣内遺跡で作られた鉄製品は、主に紀伊半島に運ばれたのではないかと述べましたが、では、なぜ淡路島だったのかという疑問が湧きます。その理由は、鉄の素材を輸入するのに都合がよかったからというのが有力です。当時は鉄の素材を主に朝鮮半島から輸入していたようですから、朝鮮半島から九州を経て瀬戸内海を東に進めば淡路島の西北部、垣内遺跡に行きあたります。 現在は海岸から2kmほど内陸にありますが、当時はもっと海に近かったことも有り得ます。また先に述べたように、淡路島と天日槍との関係が深かったとしたら、現在の播但道を通じて兵庫県北端の但馬からも鉄素材が運ばれた可能性もあります。当然それは天日槍の故郷とされている朝鮮半島の新羅から、日本海を渡って但馬に運ばれたものということになります。当時は戦乱の世であったので、淡路島のように孤立した島は、軍事上都合がよかったのかもしれません。それから、瀬戸内海沿岸は当時は高地性集落が多かったということも以前述べましたが(参照)、そこで述べたように、高地性集落同士の通信は頻繁に、また密に行われていたものと思われます。ですから、垣内遺跡は鉄素材の輸入とそれを加工した 製品の輸出に好都合の位置にあったと云えるのではないでしょうか。 先に述べたように1世紀頃の日本では製鉄までは為されておらず、鉄素材を朝鮮半島、あるいは中国から輸入していたとされていますが、これには私は疑問を感じています。もちろん鉄素材の輸入も行われていたと思いますが、縄文時代の後期から日本では鉄が使われていました。ですから紀元1世紀から遡ると1000年、あるいはそれ以上前ということになります。その間に、鉄原料が豊富な日本で、製鉄が全く行われなかった、というのはどう考えてもあり得ないと思うのです(古代の製鉄では低い温度で精錬が可能な湖沼鉄を使ったことも考えられます・参照)。 備後国(広島県)と、その東隣に位置する吉備国(きびのくに・岡山県)は古来から鉄の産地でありましたが、淡路島北西部の垣内かいと遺跡と同時代である1世紀(弥生時代後期)頃の備後や吉備では、製鉄まではやっていなかったという説もあります。この点については専門家の間でも意見が分かれているようですが、当時の状況から判断して製鉄も行われていたものと私は思います。九州北東部の宇佐国(大分県)は縄文時代後期に鉄が入ってきてから、鉄の主要な供給地でした。その後、出雲(島根県)と吉備(岡山県)が加わるわけですが、それぞれ違った豪族が牛耳っていたようです。 2003年に、弥生時代の始まりは従来の説よりも500年ほど遡って、紀元前1000年頃になるという学説が発表されましたが、この議論は1977年頃から行われていたようです。ところが先に紹介した鹿島f氏はそれよりも20年も前の1957年に、大分県の国東半島(宇佐)に製鉄基地を設けたのは、紅海を基地とするタルシン船の移民だという説を発表していたのです。鹿島氏によると、旧約聖書に登場する、古代イスラエル王であるソロモン王が率いるタルシン船団は、当初タイのバンチェンに製鉄基地を構えていたが、その地の木材を採り尽くしたので、紀元前10世紀頃九州に渡ってきたと 指摘しているのです。 出雲と吉備が鉄の産地だったことは先に述べましたが、これらの国は弥生時代から独特の文化を持っていたようです。まず、出雲には四隅突出型墳丘墓という 出雲地方独特の古墳があります。それから、吉備は前方後円墳の原型が出来上がった地とされていて、そこから出土する 特殊器台形土器は吉備特有のもので、その地で発生したとされています。ところが、この土器は大阪府八尾市の遺跡からも出土しているのです。大阪八尾市は、6世紀末の蘇我馬子そがのうまこと物部守屋もののべのもりやの仏教導入をめぐる争いの舞台となった所と云われています。仏教導入反対の物部氏は、この争いで敗れ滅亡するのですが、物部氏は吉備出身と思われる豪族で饒速日尊にぎはやひのみことの末裔とされています。 饒速日尊は先代旧事本紀に詳しく記述されていますが、そこでは「饒速日尊、天神あまつかみの御祖みおやの詔みことのりを稟うけて天磐船あまのいわふねに乗て河内国河上かわちのくにかわかみ哮峯いかるかのみねに天降あまくだり座まし。則ち大倭国やまとのくに鳥見とみの白山しらやまに遷座うつります」とされています。ですからその子孫と云われている物部氏は河内(大阪)が本拠地となるわけですが、先に述べたように大阪の八尾市を含め河内では吉備の土器が大量に見つかっているのです。古代大和地方に豪族の存在が認められるのは4世紀頃とされていますが、先代旧事本紀の記述はこの頃のことと思われます。その時代は、鉄を大量に保有していた出雲や吉備に比べ、大和は鉄の保有は乏しかったようです。 饒速日尊にぎはやひのみことと鉄、あるいは製鉄技術は切っても切り離せないもので、鉄の武器は他の民族を征服するために必要不可欠のものだったと云っても過言ではないでしょう。それはモンゴル民族のことを振り返っても明らかで、12世紀以前には骨製ヤジリを使うような原始的な生活をしていた民族が、鉄、あるいは製鉄技術を手に入れてから100年ほどで、世界を飲み込んでしまうほどの勢いでモンゴル帝国を築き上げてしまったのです。製鉄技術から古代の歴史を見てみると、また違った見え方をします。そのことを考察した真弓常忠氏によると、古代製鉄の原料は水草の根に付く水酸化鉄であったとしか考えられないということなのです。この説は説得力があります。この水草の根に付く水酸化鉄は湖沼鉄と云われる褐鉄鋼で、古代の多くの鉄生産国での鉄原料が不明なのはそれが原因だったとも主張されているのです。氏が述べている、製鉄、鍛冶技術は巨大な技術・産業システムであり、その技術・経営ノウハウは集団で担われ、伝承されたものである。というのも当然のように思われるのです。ですから、製鉄と同じように強い火力を必要とする青銅の鋳物技術、ガラス技術、高温で焼く須恵器などの製陶技術も同じ集団となっていたことは容易に想像できます。天日槍集団もそうであったとしか考えられず、大陸から渡って来たとされる饒速日尊集団も当然そうであったと思われるのです。古代の製鉄技術を持った集団は、当時では大豪族で、これまでは、九州北部、あるいは出雲(島根県)、吉備(岡山県・広島県)を拠点としていたと云われていました。ところが平成10年に、古代丹波地域(丹後半島)の弥生時代後期の古墳から、それまでの豪族を凌ぐほどの立派な副葬品が出土しているのです。因みに時代は下りますが(4世紀頃)、ここまで述べてきていることのきっかけとなった、丹波南部の園部垣内古墳の埋葬者も、副葬品から判断してかなり大きな豪族だったと思われます。このように、古代丹波の地(現在の兵庫県のおよそ北半分)は、出雲(島根県)や吉備(岡山県と広島県の一部)に劣らず大きな力を持った豪族がいたものと思われます。時代は弥生時代中頃でしょうか 古事記・日本書紀で全く触れられていない事柄に、饒速日、卑弥呼の他に銅鐸のことがあります。銅鐸は弥生時代のものとされていますが、出土地は近畿を中心とする西日本に集中しています(参照)。最も多く出土しているのは出雲(島根県)で、加茂岩倉遺跡だけで39個発見されているということです(参照)。次に多いのは近江(滋賀県)で、野洲市に集中しています(参照)。その他、兵庫県、徳島県、大阪府でも多く出土しています。関西に越してきて間もない頃、滋賀県野洲町にある銅鐸博物館に足を運んだ記憶があります。当地で出土した13cmほどの小型の 銅鐸のレプリカを記念に購入しました。これは出土したものと同じ金属成分で作られたものだということで、今でも身近に置いて、 時折音を鳴らし楽しんでいます。この銅鐸には出土したものと同じように内側に舌が下げられていて、風鈴と同じように音を出すことができるのです。松重楊江氏によると、「水尾みずのお大明神本土記」(滋賀県高島市にある水尾神社)の猿田彦に関する記述に、「時に天レイ(のぎ偏に令)暦五十七穂歳サナエ苗月サナエの日なり」とあるのは、「遺教の辞」のなかに「我が祭る嶋那秧サナエの日」とあることに関連付け、「古語拾遺」にある「銅鐸をサナキという」 記述に結び付けています。これに加え、新井白石の「東雅」に「サは細なり、ナキは鳴きなり、音の細かなるを謂う」とあるのを引用し、「サナエの日」とは銅鐸を鳴らす日のことであろうと推察しています。ここ、丹波篠山では、春の田植えが終わった後に 「サナブリ」という行事が行われます。漢字では早苗餐とも書くようです。この行事がいつの頃から行われているのかは知りませんが、これは「サナキ振り」が転訛して 「サナブリ」になったとも云えるのではないでしょうか。つまり銅鐸を振ることと解釈できるのではないでしょうか。もしそうだとすると、「サナブリ」の行事は古代から行われていたということになります。因みに、私が生まれ育った福岡県北部では「サナボリ」と云います。 ここ丹波篠山では銅鐸は出土していませんが、北隣の丹波市春日町では二個の銅鐸が出土しています(参照)。ですから篠山も銅鐸圏内に入っていると思います。近所の藤岡山遺跡からは、旧石器時代から弥生時代にかけての遺品が出土しています。篠山川沿いは太古の時代から人々が生活を営んでいたようです。古墳時代になると丹波最大級の前方後円墳と円墳が築かれています。これも近所にあります。篠山盆地には古墳や塚は多く存在しています。 因みに、日本書記・垂仁紀に「昔、丹波国桑田村に甕襲ミカソという者あり、その家に犬あり、名を足往アユキと云ふ。この犬、山の獣牟士那ムジナを喰ひて殺しつ。獣の腹に八尺瓊勾玉やさかにのまがたま有り、よって献る。 この玉は今、石上神宮いそのかみ かむみやに有り」とあります。篠山は古代丹波の南端に位置しています。一方北の端に当たる但馬地方でも銅鐸が出土しています。なかでも有名なものは豊岡市気比けいで出土した四個の銅鐸です(参照)。興味深いのは、これら四個の銅鐸の一つが大阪府堺市から出土したものと同じ鋳型で作られているということが判明しているのです。また、別の一つは大阪府茨木市の銅鐸工房跡と思われる遺跡で 作られたものということが明らかになっています。驚くことに、この工房で作られた銅鐸は他にも、四国・香川県、そして大阪府豊中市でも出土しているのです。 「気比けい」といえば、福井県敦賀市に気比けひ神社がありますが、日本書記で、「ある書では、ミマキ天皇の代に、額に角のある人が船に乗って越国・笥飯けひ浦(気比神社)に泊まった。どこの国の人かと問うと、「大加羅(おおから)国王の子で、名はツヌガアラシト、またの名はウシキアリシチ干岐かんきという 云々・・」とあります。干岐という名は明らかに朝鮮半島のものですが、ツヌガアラシトは朝鮮半島南端にあったとされる加羅から国の王子だったとされています。以前述べたように、天日槍あめのひぼこと同一人物とされていて、日本書紀に収録される際に二つの話に分離されているようです。日本書紀では、このように一人の人物を分離するということがまま見受けられますが、以前述べた饒速日尊にぎはやひのみことの名も、本来は「天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊」というものです。これは先代旧事本紀に記述されている名ですが、日本書紀では「火明命」と「櫛玉饒速日尊」は別人になっています。但馬の気比けい神社は実態が不明だということですが、境内からは弥生時代の遺物が出土しているということです。福井県の気比けひ神社も古くからある神社のようで、主祭神の伊奢沙別命いざさわけのみことは天日槍と同一人物という説もあります。 他の祭~に日本武尊やまとたけるのみことや武内宿禰たけのうちすくね、それから摂社として猿田彦神社 がありますので、明らかに銅鐸民族です。 猿田彦さるたひこは、出雲の大国主おおくにぬしが国譲りをした後の天孫降臨の際に瓊瓊杵尊ににぎのみことの道案内をしたということになっています。そのためか、江戸時代には道祖神どうそしん信仰の対象ともなり、伊勢参りの際に天狗の鼻のように長い鼻の赤ら顔の面を土産に買い、背中に背負った旅人の絵が今でも残っています。道祖神は信州(長野県)安曇野あずみのが発祥の地ともされていますが、以前の随想で述べたように、地名の安曇あずみの元となっている安曇氏あずみうじは、古代海人族を率いる豪族だったとされていて、本拠地は福岡県糟屋郡新宮町とされています。その一族が後に滋賀県の高島市安曇川あどがわ町(旧安曇村)、それから長野県の安曇市にも移動しています。また、滋賀県高島市の安曇川近辺(高島市拝戸)に鎮座する水尾(三尾)神社で、古代史文書の一つである「秀真伝ほつまつたえ」が発見されているのも何か暗示的なものを感じます。水尾神社では猿田彦も祭られています。天孫降臨は、古事記では二度行われていますが、最初の降臨は「番仁岐命ほのににぎのみこと、初めて高千たかちほの嶺みねに降くだりまし」とありますので、これは宮崎県にある高千穂峰だと思われます。時代が下って次の天孫降臨では、日子番能邇邇芸命ひこほのににぎのみことが「竺紫つくし・ちくしの日向ひむかの高千穂の久士布流多気くじふるたけに天降りましき」とあります。こちらの降臨も宮崎県の高千穂峰であるとする説、あるいは鹿児島県の薩摩半島であるという解釈もあるようですが、古事記の記述では天下った竺紫の地で日子番能邇邇芸命は、「此地ここは、韓国からくにに向ひ、笠沙かささの御前みさきを真来通まきとほりて、朝日の直刺たださす国、夕日の日照る国ぞ。」と云っているので、この竺紫は福岡県北部の筑紫(地元では「ちくし」と発音します)しか有りえないと思われるのです。福岡県北部には日向という地名はありませんが、近辺の朝倉市には日向石、八女やめ郡には日向神という地名はあります。「高千穂の久士布流多気」での高千穂は形容詞的に使われていますので、地名や山の名前ではないと思われます。問題は「久士布流多気」ですが、おそらくこれが山の名前でしょう。これらの漢字は当て字ですので「クシフルタケ」と発音する山だとすると、現在の山には該当する ものがありません。タケ=岳だとすると「クシフル」が残ります。そうすると宮崎県にある くしふる神社となるのでしょうか。ところが、この宮崎県の神社はどうも新しそうですね・・。 延喜式にも取り上げられていません。時代的に考えても九州北部が盛んだった頃なので、福岡県の筑紫説の方が有力だと思います。今、映画化されて話題になっているまぼろしの邪馬台国の原作者の、今は亡き宮崎康平氏は、「クシフルタケ」の「クシ」は魏志倭人伝に記されている躬臣国くしのくにの躬臣(現在の福岡県浮羽(うきは)郡)にあたるとしています。また、宮崎氏は日向は宮崎県の地名ではなく、対岸という意味だとしています。 亀山八幡宮が鎮座する福岡県糟屋郡別府の地は、弥生時代には海岸だったということが判明しています。 亀山古墳の頁で述べている、亀山古墳がある別府の地から、安曇氏あずみうじの本拠地である新宮町までの北に続く神社ライン、亀山八幡宮〜香椎宮かしいぐう〜新宮しんぐう神社、は同様に弥生時代は海岸でした。これらの神社から等距離(10kmほど)にあり、扇の要に位置しているのが、金印が出土している志賀島しかのしまです。ここは昔は糟屋郡に属していました。志賀島には志賀海神社がありますが、元宮と云いますか、本来は現在の神社がある場所とは違う、島の外海側、朝鮮海峡に面した勝馬かつま地域に、表津宮うわつみや・仲津宮なかつみや・沖津宮おきつみやの三社があり、綿津見わたつみ三神として奉斎されていたということです(参照)。新宮町にも綿津見神社があります。綿津見の「ワタ」は海のこと、「ツ」は助詞の「の」、「ミ」は神で、海の神、海神わたつみのことです。(参照) この写真は勝馬海水浴場付近にある表津宮うわつみや跡。先般訪れた際に偶然見つけたものです。脇道からさらに林の中に深く入った所にあり、ふつうならば地元の人に教えてもらわなければ、なかなか辿り着けない所です。因みに、この地からは弥生時代の銅剣の石製鋳型が発見されています(参照)。貝原益軒によると、 志加(志賀)神社三座は里ノ中なる御社に底津少童命そこつわたつみのみことを祭りて、余りの二神を相殿あいどのとす。次に島北一里ばかりに勝間(現在は勝馬)ノ里あり、其処の浜なる松林の内に志加ノ中宮と号して中津少童命を祭る。次に其処より少し北の海中に小島あり、其島に沖ノ明神と号して表津少童命を祭る とあります。 ということは、 この写真の表津宮跡は表津宮ではなく、仲津宮なかつみやということになります。 表津宮うわつみや跡のすぐ脇は勝馬の海岸です。志賀海神社の祭神は左殿 仲津なかつ綿津見神(相殿、神功皇后)中殿 底津そこつ綿津見神(相殿、玉依姫命)右殿 表津うわつ綿津見神(相殿、応神天皇)となっていますが、それぞれの相殿神あいどのしんが亀山八幡宮の祭神と共通しています(参照)。 因みに、志賀海神社の祭神の名で、海を表津うわつ綿(海)、仲津なかつ綿(海)、底津そこつ綿(海)と分けていますが、このような分け方は陸の地名にも及んでいる場合もあります。岡山県の備前びぜん、備中びっちゅう、備後びんご、など。 また、大阪の住吉大社の第一本宮の祭神は底筒男命そこつつおのみこと、第二本宮には中筒男命なかつつおのみこと、第三本宮には表筒男命うわつつおのみこと、第四本宮には息長足姫命(おきながたらしひめのみこと=神功皇后)となっています。 福岡県糟屋郡別府にある亀山八幡宮と同じ名前の神社は宮城県を北限、三重県を東限に大分県、長崎県、山口県、広島県、香川県、にあります。やはり西日本の海沿い、それも瀬戸内海沿いに多いようです。別府べふという地名は他には福岡県遠賀郡にあり、また大分県の別府べっぷが あります。関西では、私が知っているところでは兵庫県加古川市に別府があり、三木市には別所があります。また高知県香美市物部町別府というところは温泉地でもあります。温泉と云えば、大分県の別府べっぷ温泉がありますが、この地名は昔の(おそらく平安時代の頃)田制の別符が転じて別府なったとする説があります(参照)。鹿島昇氏によると、同様の語として「千軒」を挙げていますが、先住民限定地のこととされています。「別邑べつむら」、「別所べっしょ」、あるいは 「蘇塗そと・そって」とも云うとしています。蘇塗はインドのカースト・ゲットーと同義で、朝鮮半島にもありますが、中国大陸の内陸部には存在しないということです。鹿島氏の師にあたる浜田秀雄氏は、蘇塗を古事記の神武記に記されている「足一騰あしひとつあがり」のことであるとしています。氏によると、足一騰を「あしひとつあがり」と読んでも意味を成さないとし、「そいと」と読むべきだとしています。また、これは「魏志韓伝」に記されている蘇塗のことだとし、「魏志韓伝」の記述が紹介されています。そこのところを抜き出しておきます。 「諸国各別邑べつむらあり、之を名付けて蘇塗となす。大木を立て、鈴鼓を掛け鬼神につかう。諸亡逃れて其の中に至れば皆これを還せず」 別府と云われる地域は山岳系の民族が農業民と分離して生活していたとされる所で、福岡県糟屋郡別府の地は明らかに 「タタラ(製鉄など)」を行っていたものと思われます。製鉄のための高温を得る技術を持っていれば、他にも青銅の鋳造もできますし、ガラスを作り出したり、高温の焼き物を焼くことも可能です。それを裏付けるように、糟屋郡別府には鏡という地名、また近隣には北に「多々良」という地名、そして時代は下りますが、南東には「須恵」という地名もあります。 参考までに、これは糟屋郡別府に隣接する粕屋町から出土している弥生時代の銅戈の鋳型です。京都の妙心寺にある日本最古とされる梵鐘には、文武もんむ二年(698年)に糟屋評造かすやのこおりの みやつこの春米連つきのむらじ広国が作ったということが、鐘の内側に陽刻で鋳込まれて記されています。また、この鐘と同じ鋳型で作られたものが福岡県太宰府市にある観世音寺にもあります。こちらの鐘には年紀は記されておりませんが、妙心寺の鐘とほぼ同じ時代に鋳造されたものとされています。観世音寺の鐘も国宝です。糟屋郡から数キロ隔たったところには、「板付いたづけ」や「春日」といった考古学上重要な遺跡がある地があり、そこからは銅鐸や銅矛の鋳型も発見されています。また、近隣の古墳からはガラスで作られた勾玉も出土しています。ですから、別府を中心として様々な鉄製品、青銅製品、ガラスが作られ、それらはもしかして、すぐ近くの海から各地へ輸出されていたと いうことも考えられます。それを裏付けるように、別府地域の北端にある縄文時代後期から弥生時代にかけての遺跡、横枕遺跡からは、大分県の姫島産の黒曜石で作られた鏃やじりと、それらを作った際に出たと思われる剥片が見つかっています。ですから、古く見積もれば、縄文時代の頃から遠く離れた大分県とも交易があったこということになります。 大分県には八幡宮の総本社である宇佐神宮がありますが、ここも海人族の本拠地で、もしかしたら安曇連あずみのむらじが最初にやって来た場所かもしれません。主祭~は八幡三神といわれる、応神天皇、比売大神、神功皇后です。 このように、鉄や青銅、そしてガラスを作る、当時の最先端の技術を持っている邑ならば、それを守るためにその地域は濠や垣で囲われていたことも考えられます。それが最初のテーマ、垣内 (かいち・かいと)の語源かもしれません。 垣内という地名の近くには黒や神が付く地名が見られます。黒は鉄の象徴ですし、神は不思議な力の象徴でもあります。黒い砂鉄や土が炎によって刃物になったり、火にかけることのできる便利な器に変化する不思議に、神の力を感じるのは現代人以上のものがあったのではないでしょうか。 その一 その二 その三 その四 その五 その六 その七 その九 その十 勾玉について 銅鏡の文字について 古代の製鉄について 天日槍について 猿田彦について ブログ:歴史について Home |