日本刀について


宮下文書には、三種の神器の由来がおおまかではありますが記されています。以下、それを紹介しておきます。
まず出雲
(島根県)に流刑された祖佐之男命スサノオノミコトが心を入れ換えて三種の神器を作る件では、流刑の際同行させた従族である剣刀知という者に、手力男命てぢからおのみこと夫婦と協力して宝剣、神宝を作る事を申し付けた。手力男命とその妻は、神祖々の諸神に毎日毎夜、泉水を以て身を清め祈願を続けると、21日目の夜に神託があった。それに従い、まず佐渡島より金、銀、黒鉄の三品の砂を掘り集め、剣刀知を師匠とし、三者が工夫を凝らし、黒鉄、金を解かして大槌、小槌を造った。
大槌は黒鉄、小槌は金。さらに、鉄、金に銀を三分混ぜて火で焼き解かし、平らな石の上で手力男命夫婦が、先に造った大槌、小槌で百日打ち鍛え宝剣を八本造った。同様にして銀金を21日鍛え、八太羽の鏡を造った。また同様にして、砂金を21日間鍛え上げ小さい金の玉を造った。これを糸で繋ぎ日輪の形を造り、白の玉石、青色の玉石を糸で繋ぎ蓬莱山
ほうらいさん高千火の峯たかちほのみねの形にしたものを日輪の上に安置した。月輪は銀を以て同様に造り、これを祖々天都大御神の御神霊と唱え、宝司の御霊と仰いだ、とあります。
次に、崇神天皇の世に三種の神器の模品が作られています。
その件では、天照皇太神宮の広前に百間
(およそ180m)四方に垣を結い廻らし、四方に縄をもって注連しめを張り、中央の奥に不二山(富士山)に日に月の形を造って飾り付け、前の両脇には松竹梅を飾り、更にその前に棚を造り幣束へいそくを七本立て、諸々の万の種々くさぐさの品々を供え、雨除けの屋根をかけ、三方には簾を吊り、四方に注連縄しめなわを張りめぐらした。この祀り場の前に十間四方の細工小屋を造り、四方に簾を吊るし、注連縄を張り、清浄なる仕事場とした。
この仕事場に勅命を以て、不二高天原より亀湖地
かめこち、都留松つるまつの二人の鍛冶を招ぎ、筑紫より千久男、宇目男うめおの両鍛冶を招ぎ、出雲より竜真木りゅうまき、太都尾たつおの両鍛冶を招ぎ、津嶋より真津美まつみを招ぎ、天皇すめらみことは詔みことのりを下し、「皇祖天照太御神より、御子孫代々御位を御授け賜りたる三品の大御宝の通りに、金、銀、黒鉄くろがねを鍛えて作りあげよ」と命じた。七人の鍛冶師は百日の間水にて身を清め衣服を新たにし、飲食物を切り火して清め、百日の間鍛えに鍛え、勅命に応えて三品と同様のものを作り上げた云々、とあります。




藤ノ木古墳のことを調べていたら、大変興味深いものに行き当たったのです。

    

これがそうです(古代刀と鉄の科学より部分転載)。これは6世紀前半の古墳、埼玉県将軍山古墳から出土した太刀たちの部分画像ですが、日本刀が完成されたとされる鎌倉時代(13世紀)の名刀と比べても何ら遜色はありません。全長99.8cm、刃長80.7cmと刀としては長大な部類に入ります。地鉄じがねには技術的に困難とされている杢目肌も見えます。今は亡き刀剣研ぎ師の小野光敬氏は、数十年間正倉院に眠る古代の刀の研磨に携わっていられましたが、これらの刀の砥当たり(研いだときの感じ)は鎌倉時代の名刀と何ら遜色はないと口にされています。
画像の上部白いところが刃部で黒いところが地鉄
です。どこかの山の遠景写真のようにも見えます。山にかかっている雲はまさに群雲むらくもとなっていて、三種の神器の一つである「天叢雲剣あまのむらくものつるぎ」の名は、まさにこの刀のような刃の働きから付けられたに違いないと思われるのです。現在名古屋の熱田神宮に収蔵されているとされる天叢雲剣ですが、神話に登場する八岐大蛇やまたのおろちの尾から出てきたとされる、この天叢雲剣はいつの時代のものか不明とされています。仮に初代の天皇である神武天皇の頃とされる紀元前7世紀とすれば、上に挙げた画像の太刀が作られた時代から1300年前ということになります。
つまり6世紀の時代には刀の歴史はすでに1300年以上あったということになります。これは現代から見てみると、1300年前は7世紀の奈良・平安時代となります。その後江戸時代の中頃にはそれ以前の製作方法が全く判らなくなっているということですが、そうすると現代の刀作りの伝統は300年ほどしかないとも云えます。紀元前7世紀から上に挙げた刀が作られるまでの1300年間はどうだったのでしょうか・・たいへん興味が湧くところであります。




鉄が日本列島に持ち込まれたのは縄文時代後期頃の九州北部と云われていますが、それを持ち込んだのはおそらく東南アジア、あるいは現在の中国雲南省あたりから日本にやってきた人々だろうと思われます。その一つに、以前にも述べたように徐福伝説があります。
弥生時代に日本列島を征服したのは、朝鮮半島などからやってきた鉄の武器を持った民族だと思われますが、この民族集団が日本列島を移動したルートは天日槍が移動したと伝えられているルートと重なっているのです。北部九州から徐々に西に移動し、滋賀県、三重県あたりまで進行しています。
その移動は徐々に行われたものと思われますが、当時はアジア全体が激しい戦乱の時期だったようで、特に紀元前5世紀の中国春秋時代の戦乱の際には、その難を逃れて海上ルートで日本にやってきた民族も多かったようです。紀元前1世紀頃には中国の江南から北九州沿岸地域にかなりの移住者があったようですが、これも戦乱後の前漢朝の支配から逃れるための移住だったようです。
因みに、この時期に前漢は鉄製武器の輸出解禁をしているということです。
このように様々な民族が入り乱れると、当然その民族集団の間で覇権争いが起こっても何ら不思議はないわけで、そのようなことはその後も繰り返し起こったことは容易に想像できます。時代は下りますが、聖徳太子伝説の元になったのも、また古事記、日本書紀を編纂した民族、つまり壬申の乱で勝利した一族
(天武天皇)が日本を平定したのもその一つの事件にすぎず、その後、藤原時代を築いたのもまた別の民族集団だったことも充分にあり得るのです。
専門家の調べによると、朝鮮半島を経由した北アジア人の日本列島への渡来は、弥生時代
(紀元前3世紀説)から7世紀頃までのおよそ1000年間に100万〜150万人に達したということです。これまで発見された頭蓋骨の形態から推定した縄文人対弥生人の人口比は近畿で1:9、中国地方2:8となるということです。




古代朝鮮半島の伽耶かやと新羅しんら・しらぎは早くから西アジアや中央アジアの影響を受けているということです。伽耶は6世紀に新羅に併合されるのですが、共に同様のルーツを持つ民族だったようです。その伽耶国は製鉄技術と国際通商を得意としていて、古代東アジアの先進的な国だったということです。伽耶国が成立したのは1世紀頃とされていて、鉄の武器と強大な騎馬兵力を持っていたということです。それ以前は、もともと農耕民族だったようですが、それを騎馬民族が数回にわたって征服し、成立した国で、この伽耶国が北九州や吉備(岡山県)など日本列島に殖民したとうことは、今では動かしがたい事実のようです。古墳時代初期(4世紀頃)の古墳から馬具や大量の鉄器が出土しているのを見ても、これは否定できません。
古代文明が栄えた地が今ではほとんど砂漠になっているのは、
ジャレド・ダイアモンド
が述べているように、鉄を確保するための森林破壊が原因かもしれません。
現代の製鉄では燃料はほとんどコークスが使われているようですが、昔は木炭が使われていました。鉄を確保するために、おそらく膨大な量の木材を伐採していたものと思われます。古代の朝鮮半島でも、そのために山が禿山になったという記録も残っているようです。ですから日本列島に新天地を求めたのは、鉄の燃料を確保するためだったということも充分あり得る話ではないでしょうか。




伊勢神宮が鎮座する三重県伊勢地方には「蘇民将来そみんしょうらい」という伝説があります(参照)。ここで登場する牛頭天王こずてんのうというのは古事記、日本書紀に登場する素戔鳴尊スサノオノミコトのことです。素戔鳴尊と云えば八岐大蛇ヤマタノオロチ退治で有名ですが、先に述べたように、退治した大蛇の尾から鉄の剣つるぎが出たとされています。これが三種の神器の一つである「天叢雲剣あまのむらくものつるぎです。草薙剣くさなぎのつるぎとも云います。
さて、この伊勢地方の伝説と同じものが備後国
(広島県)風土記びんごのくにふどきに見られるのです(参照)。これは続日本紀にも引用されていますが、これに登場する武塔神むとうのかみは、「外国から渡来した武答天神王か、武に勝れた神を意味する名であるかは明確ではない」と紹介したサイトでは解説されていますが、桓檀古記かんだんこきの訳・注釈書を出している鹿島fかしまのぼる氏によると、蘇民将来伝説はベドウィンの説話が下敷きになっていて、モーゼとソロモンに関するユダヤ人の説話と東南アジアのマレー半島のワニだましの説話が合成されたものだということです。
マレー半島のワニだましの説話は古事記神話の「因幡
いなばの白兎」の元となっているものです。この神話が日本書紀には記載されていないのは引っかかるところですが、蘇民将来伝説が記載されている備後国風土記が残されている備後国(広島県)と、その東隣に位置する吉備国きびのくに(岡山県と広島県)は古来から鉄の産地であり、早くから大豪族の拠点となっていた地として知られています。九州北東部の宇佐国(大分県)は縄文時代後期に鉄が入ってきてから、鉄の主要な供給地でした。その後、出雲(島根県)と吉備(岡山県)が加わるわけですが、それぞれ違った豪族が牛耳っていたようです。
2003年に、弥生時代の始まりは従来の説よりも500年ほど遡って、紀元前1000年頃になるという学説が発表されましたが、この議論は1977年頃から行われていたようです。ところが先に紹介した鹿島f氏はそれよりも20年も前の1957年に、大分県の国東半島
(宇佐)に製鉄基地を設けたのは、紅海を基地とするタルシン船の移民だという説を発表していたのです。鹿島氏によると、ソロモン王が率いるタルシン船でやってきた民族集団(エブス人やフェニキア人)は当初、タイのバンチェンに製鉄基地を構えていたが、その地の木材を採り尽くしたので、紀元前10世紀頃九州の宇佐に渡ってきたと指摘しているのです。




平安時代に編纂された延喜式の巻四十九 兵庫寮のなかから刀作りについての記述を取り上げておきます。

烏装くろつくり横刀たち一口 長功二十一日、
中功二十五日、短功二十八日
(この記述は作者の腕前の違いによるかかる 日数だと 思われます)ハカネ(鋼)を破り
ハカネ
を合わせ、并ならびに刃を打つこと二日(削り)并に錯(研ぐこと)四日。麁砥(荒砥)磨き一日、焼(焼き入れ)并に中磨き一日、精磨まとぎ一日、瑩(仕上げ磨き・艶出し) 一日。鞘を鐫(彫り作り)、革でツツム作業一日。元漆三遍(漆の下塗り三回)、このとき塗る毎に一日乾かすこと。中漆(漆の中塗り)二遍、塗る毎に一日乾かす。ホの具(金具)を作ること二日。麁錯あらすり 、精錯(ますり)并に焼塗り漆の作業二日。線縒(糸より)并に柄纏つかまきをし、柄・鞘に中漆(漆の中塗り)をする作業一日。花漆(仕上げ塗り) 一日一遍。ホ具及び柄を著するに一日。


原文は漢文で、ルビ、送り仮名が付けられているところはそれに順じました。パソコンで表示できない漢字はカタカナにしておきました。注釈は私の解釈ですので間違っているかもしれません。間違いがありましたらご指摘頂くと助かります。




刃物鍛冶の名工「千代鶴是秀ちよつる これひで」は明治七年、当時の名門刀工一族の家に生まれています。父は刀工・運寿是俊、祖父は米沢藩の御用鍛冶であり、また上杉家のお抱え鍛冶でもあった長運斎綱俊、その姉の子は江戸の刀工・石堂家の養子となり、後に徳川家のお抱え鍛冶となった七代目・石堂運寿斎是一これかずとなっています。祖父の兄も刀工で長運斎綱英、その嗣子(あととり)新々刀期(江戸時代後期から明治時代)の代表的刀工固山宗次です。
千代鶴是秀が生まれて2年後の明治9年、廃刀令が出されます。これを期に刀剣関係の仕事をしていた職人は職を失うことになります。それは刀鍛冶をはじめ、刀装具を制作していた彫金師、蒔絵師など多くの分野に及び、なかには自刃
じじんする者もいたということです。
千代鶴是秀の父親、二代目綱俊
(運寿是俊)は士族であったという矜持からか、廃刀令後は隠居をし、その弟は七代目・石堂運寿斎是一の養子となり、八代目・石堂寿永としながとして刀剣鍛冶から刃物鍛冶へと転身しました。それでも、後に正倉院の刀剣写しを命じられたり、明治六年に開催されたウィーン万博に刀剣を出品したりしています。
明治17年、10歳の千代鶴是秀
(本名:加藤廣)は、叔父にあたる八代目・石堂寿永に入門します。石堂寿永の息子も同世代で、共に修業をしたということです。
白崎秀雄著「千代鶴是秀」によると、明治33年、千代鶴是秀27歳の時に刀剣会に自作の刀を出品したことがあるそうで、当日、鑑定員数名がその刀を見て次のようにやり取りをしていたということです。ある一人曰く「さあて、この刀は長運斎千代鶴是秀と銘が切ってありますが・・」、他の人物曰く「備前伝の作風だが、新作刀のようじゃないところがあります」、また他の鑑定員曰く「私の考えでは、これは無銘の古刀に今の人が銘を切ったもので、出品者が我々の鑑定力を試しているのではないでしょうか」・・ということで、結局出品作として受け付けてもらえなかったということです。後年、なぜ刀工の家に生まれながら刀を打たないのかと訊ねられた是秀は、先の逸事を述べ、「この時以来、私は刀を打っておりません」と答えたということです。
このことから、刃物鍛冶へ転職していた石堂寿永の工房では、
刀剣鍛冶の技術も千代鶴是秀に伝授していたことが伺われます。事実、石堂寿永の師、石堂運寿斎是一も健在で、両人から手ほどきを受けたようです。運寿是一といえば、備前伝の作刀を得意としていて、本歌にはない沸
にえ本位の丁子刃文ちょうじ はもんを破綻なく焼き上げることができるのは、新々刀期の刀工の中ではこの人だけだったということです。丁子刃文を焼くには鋼の処理が難しいということで、それに加え、刃文に、刀の元から先まで破綻なく沸(比較的大きめの粒状金属組織で肉眼で見ることができる)を付けることができるというのも、技術の高さを物語っています。
それから、先に記述したことで、千代鶴是秀作の刀を見て鑑定員が古刀と見間違えたというところも興味深いのです。古刀とは江戸時代以前
(慶長以前)の刀のことをいいますが、明治時代当時の新々刀期の刀と比べると地鉄じがねの様子でその違いを見分けることができます。古刀期の次の時代区分は、江戸時代初めから後期までを新刀期、そして江戸後期から明治時代までを新々刀期としています。その区分は地鉄の違いで分けている言い換えてもいいくらいです。それほど違います。ですから、刀の鑑定員をしているほどの人物がこれを見間違えるほどですから、是秀が作った刀はよほど違っていたのでしょう。ぜひ見てみたいものです。




先日NHKテレビで、神戸製鋼の溶鉱炉の改築のことが番組として放映されていました。番組のなかで、神戸製鋼という会社には製銑部という部署があるということが紹介されていましたが、銑銑鉄せんてつのことで銑ずくとも呼ばれています。一般的に「鉄」と云われているもののなかで、炭素の含有量が1.7%以上のものを銑と称するのだそうです。炭素の含有量が1.7%〜0.03%のもを鋼はがね、0.03%以下のものを鉄と称します。つまり、炭素分が多いほど常温で硬いということになります。ですから専門的には、ハリガネのように常温で軟らかいものを鉄と称し、刃物に使うような硬さのものは鋼、鉄瓶など鋳物に使うものを銑と称しています。
番組で、溶鉱炉では1500度で鋼を製造すると説明されていましたが、そこで作られた鋼が何に使われるのかははっきり判りませんでした。こうして作られた鋼は使用目的により、建築用鉄骨や自動車用車軸、それから刃物用などに二次加工されるのだと思いますが、日本刀には使用されません。日本刀の重要な要素である地鉄
(じがね)の冴えや美しさは、溶鉱炉で作られた鋼では出ないのだそうです。日本刀に使われる鋼は日本古来からの「たたら」という炉で作られたものを使用します。この炉では還元するときの温度も1200度〜1300度と、やや低い環境で行われるということです。1500度以上の高温だと不純物が混ざってしまうのだそうです。
刃物としての性能だけならば、現在作られて合金鋼の方がはるかに優れています。たとえば、私は黒檀など硬い木材を削る刃物はハイス鋼のものを使っていますが、ハイス鋼は鋼にクロムとモリブデンやタングステンなどを混ぜたものです。このハイス鋼の刃物は強靭で、刃こぼれすることもなく、炭素分だけの鋼のものより数倍永切れします。ですが、どのような優れた砥石で研ぎ上げても炭素鋼のような冴えや輝きは出ません。
先に紹介した刃物鍛冶の名工・千代鶴是秀は、師匠から日本古来の玉鋼よりも洋鋼
(輸入鋼)の方が刃物として優れているので、それを使うように伝授されたということです。




日本刀は鎌倉時代(13世紀)に完成されたとされていますが、それは実用上の完成度というよりも、鑑賞上の完成度を差していると思われます。記録によると、刀というものは平安時代の頃から鑑賞の対象ともされ、現代と同じように、刀身の地鉄じがねや刃文はもんの美しさなどを鑑賞していたようです。
先に述べたように、鉄というものが弥生時代に日本にもたらされたとすれば、鎌倉時代に刀が完成されるまで1800年ほどかかっていることになります。鎌倉時代の刀の製作技術(特に鉄の精錬技術)は江戸時代の中頃には途切れてしまったということで、以後の作者は鎌倉時代の名刀に迫ることを目標にしているといっても過言ではないようです。それは現在でも同じで、そうすると江戸時代から数えておよそ300年間それは続けられていることになります。ということは、鎌倉時代に迫ることができるには、あと1300年かかるということになるのでしょうか・・

先に、日本刀は日本古来の「たたら」炉で製鋼された鋼を使うということを述べましたが、これは砂鉄を原料とし、炭火で温度をかけ還元、取り出された鋼で、こうして得られた鋼のうち最も優れているものを玉鋼と称します。日本刀を作る場合これを外側に使い、内部は炭素量の少ない柔らかめの鉄を使って芯にするというこいとです。こうして折れず曲がらず、という日本刀の特徴が作り出されます。
ところが近年、古刀期
(平安時代から安土桃山時代)の刀は、外側の鋼に使われているのは玉鋼だけではないという説が刀工自身からも発せられ、日本刀完成期の鎌倉時代を凌ぐには、まずそのことを解決しなければならないという声も出されています。鉄の研究者のなかには、古刀の鋼は銑鉄から作られているのではないかと唱える人もいたそうです。現に刀工のなかには銑鉄を使っている人もいるようで、それを行っている人たちは、自身があらゆる試行錯誤を経、数十年かかって辿り着いた結論のようです。

古刀期の刀と新刀期
(江戸時代)のそれを比較すると、地鉄じがねの違いは一目瞭然です。決定的に違います。ということは、それは、やはり使われている素材の違い、あるいは処理の仕方の違いとしか考えられないのです。それから、現在伝わっている作刀技術も江戸時代中期以降のもので、それ以前のやり方は全く判っていないのだそうです。こうしてみると、全く暗闇を進んでいくようなものです。それでも、そのことに全てをかけて取り組んでいる人たちがいるということに、驚くとともに、深く感じ入ってしまうのです。
これは楽器作りにも云えることで、楽器を作る、音を作るということは先が全く見えない暗闇を進むようなもので、手探りの勘しか頼れるものはないのです。その勘を磨くには、木と深く付き合うしかない、という信念のもとに私も日々探求を続けていますが、この信念は時には揺らぎそうになることもあります。その時に、日本刀に取り組んでいる方々の強靭な探究心にこれまで勇気付けられてきたのです。




刀の「拵えこしらえ」に使う「鍔つば」の作者は、刀工が鍛えた鋼を使うのが一般的だということですが、成木一成氏は、素材の鋼を自分で作るのだそうです。成木氏は昔の有名な鍔を写す(模写)こともなさっていますが、尾張鍔を写すときには特に苦労したということです。そのことが、自分で砂鉄から鋼を取り出す「自家製鋼」をすることになったきっかけだったということで、試行錯誤の末ようやく判ったことは、尾張鍔の質感、雰囲気を出すためには数種類の産地の砂鉄を組み合わせる必要があるということでした。氏はそれを応用すれば、これまでにない鉄味を出すことができるかもしれないと確信し、全国の砂鉄を自ら採集したそうです。
北は北海道の長万部
おしゃまんべから南は種子島まで50数ヶ所の砂鉄や鉄鉱石を採集し、それらから取り出した鋼を使い鍔を試作された。それらの作品は昭和58年に行われた個展に出品されたそうですが、原料の違いによる鉄味の違いは初めて鍔を見る人にも一目瞭然だったということです。鍔は刀と違い、表面に錆びを付け黒く仕上げますが、この時の錆び付けの薬品によっても質感が違ってきますので、鉄の産地別の試作品には同じ方法で錆び付けがなされたのだと思います。
また氏は、様々な産地の砂鉄から取り出した鋼を使った刃物見本も作られたことがあるということです。その中には出来のよい刀の地鉄(じがね)のようににえや匂においが豊富に付き、刃中の働きも良いものがあったそうです。ということは、当然のことですが、刀の出来にしても鋼の原料の影響が大きいと云えます。
ここでも又、楽器との共通点が浮かび上がってきます。ある音を作るための素材
(木)、それをまとめ上げる作者の技量、判断力、勘、センスなどなど・・。それによって楽器のレベルは自ずと決まってしまいます。まったく日本刀の世界と同じではないでしょうか。
おもしろいものです。




江戸時代の金工師や根付・印籠師の技術の高さには全く驚いてしまうのですが、それを凌ぐものが後の時代に作られたという事実にまたまた驚いてしまうのです。それは他にも存在し、その一つに刀の鍔があります。



これは江戸時代初期の名工「又七」による「桜九曜紋透象嵌鍔」
              (財団法人永青文庫所蔵)




そしてこれは現代の鍔作家である玉岡俊行氏による作品「武鑑透象嵌鍔」(全日本刀匠会発行-図録日本刀の心と技-から転載)です。これには見事な「糸透かし」が施されていますが、鍔にここまで精緻な糸透かしをやり遂げたのは歴史上初めてではないかと云われているほどです。金象嵌の技術もすばらしいものです。これはもちろんレーザー加工など、現代の加工技術で行ったのではなく、昔ながらの手作業で作られたものです。

古代の製鉄

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