勾玉について


神戸雲井遺跡で発見された碧玉製の勾玉の形状は朝鮮半島から出土しているものによく似ています。朝鮮半島には翡翠(硬玉)は産せず、碧玉や天河石(アマゾナイト)などで作られているということですが、日本の勾玉のように断面は丸状ではなく板状です。
時代は無文土器時代
(紀元前1000年頃〜紀元前後)に多く、それ以前のものも出土していますので、日本の勾玉のルーツであるという説もあります。因みに1997年には神戸の北40kmほどの兵庫県三田(さんだ)市の天神遺跡でも、朝鮮半島に起源を持つ形状の勾玉が出土しています。時代は弥生時代後期(紀元前後)とされ、材質は
糸魚川産の翡翠です。ですから、形状は朝鮮半島のものですが、
作られたのは日本だと思われます。日本のどこで作られたかは明らかにはなっていないようですが、同じ兵庫県内の尼崎でも同様のものが出土しているので、もしかしたら関西で作られたものかもしれません。あるいは、弥生時代後期の三田市では丹波北部の丹後系の土器が多く出土していることから、翡翠の産地である新潟県から日本海の海上ルートを経て丹後半島から丹波南部まで翡翠製品が運ばれたということも考えられます(参照)。
元祖三種の神器の一つである八尺瓊勾玉
(やさかにのまがたま)を作ったとされる人物は、古事記では玉祖命(たまのおやのみこと)。日本書紀では羽明玉(はかるたま)。古語拾遺では櫛明玉神(くしあかるたまのかみ)ということになっています。櫛明玉命は日本書紀に記されている羽明玉と同じ人物 とされています。どの記述もほぼ天照大神の時代ということになりますが、日本書紀では、別書で、「天熊人(あま・又は あめのくまひと)が天照大神に粟、稗、麦、豆の種子と、稲の種子を献上した。天照大神は天邑君(あまのむらきみ)を定めて、稲種を最初に天狭田(あまのさだ)と長田に植えた」とあります。ここで記されている長田は棚田のことですが、天狭田も同じような 意味だと思われます。天狭田の方がより標高の高いところだったのでしょうか・・。
天照大神が活躍していた地が最初の天孫降臨の地だとしたら、現在の宮崎県の高千穂地方ということになります。日本で最初に稲作が行われたのは九州北部、福岡県とされていて、時代は縄文時代後期
(紀元前1000年頃)というのが有力のようです。
そうすると、その後稲作りが東に伝播して、宮崎県の高千穂地方に伝わったとすると、天照大神の時代は紀元前1000年より後ということになり、以前述べたことのある日本最古の王墓とされている
吉武高木遺跡
の時代は、天照大神の時代よりは数百年後ということになります。






神戸の雲井遺跡から出土した碧玉の勾玉などを見ると、この碧玉の産地と、これを作った工人のことが気にかかります。このように鮮やかな緑色の碧玉は、古代から主に出雲で産出されていますが、他には出雲から日本海側に東に繋がる山陰道から北陸道にかけて産出されるということです。山陰道の東の端は、ここ丹波の地ですが、この地でもまれに碧玉を目にすることができます。
他の地でも、石英質の岩山がある所ならばどこにでもある可能性はありますが、出雲産のように鮮やかな緑色のものには、なかなかお目にかかれないと思います。
もし、雲井遺跡から出土した碧玉が出雲
(島根県)のものだとしたら、それを加工する職人も出雲からやってきた人なのでしょうか、それとも地元の人だったのでしょうか。あるいは神戸の遥か北の端、日本海側の古代丹波を経て、縄文時代から綿々と続く翡翠の産地である糸魚川からやってきた工人だったのでしょうか・・。どちらも可能性はあります。出雲からのルートも日本海まで海上ルートだったものと思われ、出雲から但馬まで海上を行き、但馬からは現在の播但道を通って神戸までのルートがあります。因みに、古代出雲王国の領地は福井県まで含まれていたという説もあります。
先に紹介した兵庫県三田市の天神遺跡から出土した弥生時代の
翡翠の勾玉は、雲井遺跡から出土した碧玉の勾玉と同じ朝鮮半島系の形状ですので、神戸の雲井遺跡の工人と同じ系列の技術者だったということも考えられます。翡翠産地である新潟県の西隣に位置する、福井県の加戸下屋敷遺跡
(弥生時代中期)では、翡翠の勾玉が作られていた工房も発見されていますが、その遺跡から出土している勾玉の中に、三田市から出土した勾玉と同様の形状のものがあります。時代もほぼ同じ時期です。ですから、三田市で出土した翡翠の勾玉は、日本海に面する福井県から運ばれてきた可能性も大きいと云えます。






これは、近くの田圃の土手で見つけた碧玉の転石です。近所を流れる篠山川の河原を探しても、このように美しい緑色のものはなかなか見つかりません。

      

モース硬度7というたいへん硬い石ですが、このように角が丸くなっているので、相当長い間近くを流れる川にあったものと思われます。長さ5,5cm。古代の人もこのような転石を見つけて勾玉などを作っていたとされています。
私だったら右の画像のように整形し穴をあけますが、この形状は縄文時代から日本で作られた伝統的な形なのです。  参照:自作勾玉






                 

厚みは5mmほどですが、上の画像のような面積対しては薄く、
日本では伝統的にこのようなものはあまり勾玉にはされません。
日本で作られたものは断面がもっと丸いのです。






      

一方、先に述べたように、朝鮮半島で作られたとされる勾玉は上のような形状をしていて、厚みもこのように板状になっています。

因みに管玉の形状も日本と朝鮮半島では形状が違っています。
日本で縄文時代から作られているものはビア樽形で、中央部が膨らんでいます(例外もあります)が、朝鮮半島のものは短冊形になっています。ですから、弥生時代から古墳時代にかけて、日本の遺跡から出土する管玉が短冊形が多いのは、朝鮮半島の影響を大きく受けていると云えます。






日本国内で出土している玉製品で最も古いものは「ケツ(王偏に夬)状耳飾り」というものです。



これがそうですが、これらは縄文時代の初め頃(約5500年前)からおよそ1000年間日本で作り続けられています。同様のものは同じ時代の中国大陸からも発見されています。どちらがルーツとなっているのかはこれから判明すると思いますが、おそらく中国から日本にもたらされたものだと思われます。もたらされたということは、こういったものを身に付けていた民族が日本列島にやって来たということです。
上の写真では直径が小さいものほど時代が古く、次に古いものはリング状のもので、穴が小さく平たいものは新しいものとされています。新しいといっても約4500年前
(縄文時代中期)ということになります。大きさは、小さなもので直径が1,5cmほど、大きなものは5cm以上あります。
石質はモース硬度が1の滑石
(爪でも傷が付く)から硬度7の石英質のものまで様々あるということです。上の写真の中にも、硬度7の石英質のものが散見されますが、鋼(はがね)でも傷を付けることができないほどの硬い石を、どうやって加工したのでしょうか。どういう方法でリング状に刳り貫き、数ミリの切り込みを入れたのでしょうか・・穴まで開けてあります・・。考古学上では、縄文時代の初めにはまだ金属は使われていなかったとされていますが、これらを見ると、金属の加工道具を使っていたとしか考えられないのです。ですから、進化論の呪縛から解き放たれて、もっと柔軟な発想をするべきではないかと思ってしまうのです。








上に紹介したケツ状耳飾りの出土が少なくなっていく縄文時代の中頃から姿を現すのが、同じ耳飾りでもこのように焼き物で作られたものです。







横から見るとこのようになっており、これは明らかに耳たぶに挟み込んだものだと思われます。大きなものは挟むところの直径が7cm以上のものもあるということです。今でもエチオピアの原住民である
ムルシ族の女性が同様の耳飾りと唇飾り?を使っています(参照)。唇飾りの方は強烈ですね・・。
因みに、この頃の縄文時代の遺跡から、前歯を故意に抜いた女性の頭蓋骨や、前歯を櫛状に加工した頭蓋骨が見つかっています。女性の前歯の抜歯は、近年までオーストラリアの原住民であるアボリジニの間でも行われていたということです。また、縄文時代の土偶には全身に入れ墨をしたようなものがありますが、時代が下って紀元後3世紀に書かれた魏志倭人伝では、今の日本にあったとされる「女王国」の男は皆、鯨面文身していると記されています。鯨面は顔の入墨、文身は体の入墨のことです。古墳時代の埴輪に鯨面文身のものが見られますので、魏志倭人伝の記述は事実だったと思われます。

ケツ状耳飾りとこの粘土製の耳飾りは、明らかに違う民族のものと思われますので、縄文時代の中頃
(4500年ほど前)日本列島の住人に変化があったのだと思います。この頃の日本列島は、世界各地からの海流の吹きだまりとも云われ、大小様々な民族集団が移住してきているようです(参照)。因みにケツ状耳飾りは日本列島全域で出土していますが、粘土製耳飾りは東北地方から中部地方にかけて多く出土しています。これらは明らかに南方系の雰囲気がありますが、それが北日本でしか出土しないというのが興味深いところです。






先に紹介した、石で作られたケツ状耳飾りが使われていた時代、縄文時代前期には新潟県糸魚川(いといがわ)産の翡翠(ヒスイ、硬玉)で作られた大珠(たいしゅ)が突然のように出現します。翡翠で作られたケツ状耳飾りは今のところ確認されていないようなので、おそらく、ケツ状耳飾りを作る技術で翡翠を加工して大珠を作ったものと思われますが、突然のようにそれが作られるようになったということは、どういうことでしょうか。
翡翠大珠は主に東日本の遺跡から出土するということですが、これまでに発見されたものは約250個あるそうです。時代は縄文時代中期〜後期
(5000年〜3000年前)だということで、その内、死者と一緒に埋葬されていたものは10個もなく、その他のものはゴミ捨て場のようなところから見つかるのだそうです。こういった大珠は呪術者が身につけていたという説も一時期は有力でしたが、現在では必ずしもそうではないというのが通説となっているようです。
人が埋葬されたところから出土したものは、埋葬者は女性が多いようで、中には生後1年以内とされる幼児の頭部近くで発見された例もあります。縄文時代には子供の墓が多く見られます。また当時の遺跡からは、子供の手型や足型を押し当てて焼き上げた粘土板も多く出土していますが、これらは、幼くして亡くなったわが子の形見として残されたのでしょうか。
話を戻しますが、他の例では大珠が出土した人骨の肘関節に骨の増殖が見られるものがあり、この人物は生前は肘間接に負担がかかる生活習慣があったことが判っています。おそらく病気か何かで、体を移動する際に肘を使っていたものと思われます。
こういったことから、翡翠の大珠の使われ方が想像できるのですが、どうも呪術者が使っていたという説が有力のような気がするのですが、どうなのでしょうか。






佐藤矩康氏の著書に目を通していたら、興味深い写真が掲載されていました。それは日本人のルーツについて語られている箇所で、それに伴う様々な文化が説明されているのですが、そこにインドのモヘンジョダロ遺跡から出土している青銅像が掲載されているのです(参照)。著者はこの青銅像の腕輪に注目されていて、その状態と同じものが日本の弥生時代に埋葬された人骨にも見られると言及されているのです(参照)。確かに同様の腕輪をしていますが、このような人骨は九州から北海道まで確認されています。
一例を挙げると、福岡県北部の遠賀
(おんが)郡にある山鹿貝塚では、縄文時代後期の遺跡から出土した女性の二体の人骨にはそれぞれ、19個と26個の貝輪を腕に付けていたそうです。男性が付けているものも見つかっています。それから、私が気になるのは、モヘンジョダロの青銅像の首飾りなのです。これに下げられている3個のトップの形状は、先に紹介した大珠(たいしゅ)によく似ているのではないでしょうか。山鹿貝塚から出土した女性の人骨にも、碧玉で作られた大珠がいっしょに埋葬されています。

もう一つ佐藤氏が指摘されていることで興味深いことは、同じくモヘンジョダロから出土している神官王とされている像です(参照)。この像の額に見える丸いものが見え、それは紐のようなもに取り付けられて額に巻かれています。これと同様の状態の頭蓋骨がやはり弥生時代の遺跡から出土しているのです(参照)。これは島根県の古浦砂丘遺跡で見つかったもので、頭蓋骨の額部分の青緑色に染まった部分は直径が3,8cmほどあるということです。この色は、銅の錆びにより生じたものとされていますが、それに加え、頭部には幅1cmほどの帯状の窪みが確認されているということなのです。
この頭蓋骨の変形の状態から、かなり長い間鉢巻を付けていたと推察されています。これと同じ状態の頭蓋骨は、鹿児島県種子島の広田遺跡でも出土していて、その遺跡からは、先に述べた多くの腕輪をした女性の人骨も見つかっているのです(参照)。因みに、紹介したサイトに掲載されている貝符は中国殷時代の青銅器に見られる饕餮文
(とうてつもん)によく似ています。殷人のルーツははタイのバンチェンであるという説もありますが、このことはドルメン(支石墓)の伝播経路と共通していると思われますので、ほぼ間違いないようです。ドルメンと云えば、日本では縄文時代から弥生時代にかけての九州北部にしか存在しないようですが、例外的に愛媛県でも確認されています。ドルメンのルーツは紀元前5000年頃のハッスーナにあるとされています。ここは彩色土器や鉄のルーツと云える地域でもあります。これらのことは、以前述べた大野晋氏や鹿島f氏の説と繋がるものではないでしょうか。






世界史の解説書などでは、古代中国の文化(殷など)が日本や東南アジアに伝わっていったとされていますが、日本の縄文土器や、タイのバンチェンの青銅器などの年代から判断すると、どうも流れが逆のようなのですね・・。シルクロードということばがありますが、これには陸のシルクロードと海のシルクロードがあります。一般的には陸の方がよく知られているようですが、以前にも述べたように、遠距離の交流は海の方がはるかに古く、また古代ではそれが主流だったことは、各地の遺跡からの出土物から判断できます。つまりトルコなど西アジアから紅海を南下し、アラビア海を東進してインドを経由、東南アジアから日本に至る海のシルクロードを通ってもたらされたものが、中国に渡るというルートがあったということです。そのルートはシルク(絹)の交易以前からあったものと思われます。
殷時代は紀元前1600年頃から始まっていますが、タイのバンチェンでは紀元前3000年以前から青銅器が存在していました。ですから、青銅器は中国から東南アジアに伝わったのではないということが云えます。それに加え、バンチェンから出土した青銅には錫
(すず)が含まれていて、そのように青銅に錫を混ぜることは、青銅のルーツといわれている西アジアよりも古くから行われていたということが判明しているのです。つまり、青銅器のルーツはタイのバンチェンにあって、海のシルクロードを渡って中国やオリエント(西アジア)に伝わった可能性が大きいのです。






古代の勾玉は、現在のところ日本と朝鮮半島でしか確認されていませんが、翡翠のものになると日本でしか作られなかったようです。
日本では、現在、翡翠は各地で産地が確認されていますが、古代ではほとんどのものが新潟県の糸魚川産のものが使われています。また、この産地では、縄文時代から翡翠を加工した工房跡があったことが確認されています。




これらは、縄文時代の翡翠の装飾品ですが、東北を中心とした北日本で多く出土しています。ですが、当時、これらの翡翠製品は北海道から九州まで流通していたようです。







この4個の翡翠の勾玉(まがたま)も、形状から縄文時代のものと判断できるのですが、出土したのは弥生時代の遺跡なのです。ということは、このように美しい石質の翡翠の勾玉は代々大切にされてきたということなのでしょうか。このように鮮やかな緑色で、しかも透明度の高い翡翠はロウカン翡翠と云われ、現在でも宝石として扱われています。
実はこの勾玉は、九州の福岡県で出土したものなのです。しかも
一か所の遺跡から見つかっています。遺跡の名は、日本で最古の王墓と云われている吉武高木遺跡です。時代は弥生時代前期から中期とされています。この遺跡からは勾玉の他に銅鏡、銅剣もいっしょに出土しています。つまり、三種の神器が揃って一つの甕棺に埋葬されていたわけです。
ですから、日本書紀に記されている、仲哀天皇が熊襲を討つために九州に行った際、伊覩県主
(いとのあがたぬし)の五十迹手(いとで)が五百枝(いおえ)の賢木(さかき)を抜きとって船の舳艫(ともえ)に立て、八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)、白銅鏡(ますのかがみ)、十握剣(とつかのつるぎ)を掛けて出迎え、これらの神宝を天皇に献上した、という三種の神器が吉武高木遺跡から出土したものと同じ頃のものと思われるのです。








これは奈良県の唐古・鍵遺跡から出土したもので、時代は弥生時代中期後半(紀元前100年頃)とされています。この勾玉の左のものは翡翠製で、作られたのはこの時代だと思われますが、右のものは吉武高木遺跡から 出土したものと同様、縄文時代に作られたものと思われます。これも翡翠です。また当時(弥生時代中期)は中国の神仙思想も日本に入ってきていたようで徐福の影響と思われます)、仙薬として使われていた褐鉄鉱の容器(自然に生成したもの)に 入れられています。





日本書紀に勾玉に関する次のような記述があります。
昔、丹波国たにはのくにの桑田村に人あり。名を甕襲みかそと曰ふ。甕襲が家に犬あり。名を
足往
あゆきと曰ふ。この犬、山の獣しし、名を牟士那むじなといふを咋ひて殺しつ。獣の腹に八尺瓊やさかにの勾玉あり。因りて献たてまつる。この玉は、今石上いそのかみ神宮にあり。
ここで述べられている丹波国桑田という所は現在の京都府亀岡市にあります。
この勾玉が、石上神宮の禁足地から出土したものの中にあるとしたら、時代は古墳時代ということになり
(これらの勾玉は皆古墳時代に作られた形状です)、古く見積もっても4世紀後半ということになります。古事記では、天宇受売神(あめのうずめのかみ)が、天の岩屋に籠った天照大御神を招き出す際に使った、八尺(やさか)の勾玉と鏡、それから草那芸剣(くさなぎのつるぎ)を、これから天降ろうとする邇々芸命(ににぎのみこと)に与えたと記されています。つまり、初代の神武天皇よりも前の時代に三種の神器は存在したということになります。
神武天皇の存在は、現在では実在しなかったという説が有力ですが、時代は昨日紹介した最古の王墓と云われている吉武高木遺跡の時代、弥生時代の初め頃とそれほど違わないのではないでしょうか。そうすると、天照大御神はさらに古い時代ということになります。
歴史家のなかには、邪馬台国の女王だった卑弥呼
(3世紀頃)と天照大御神は同一人物だとする人もいますが、ちょっと無理があります。以前に述べたように、卑弥呼は古事記・日本書紀では触れられていませんが、同時代と思われる時期に登場するのが神功皇后です。ですから、卑弥呼と神功皇后を同一人物とする説も当然あります。ですが、これもちょっと無理があるように私は思います。
江戸時代の国学者、伴信友によると信濃国(長野県)埴科郡
(はにしなのこおり)にある玉依比売(姫)命神社の御神体は明玉(あかるたま)で神宝には、青色、紅色、白色三種の明珠(あかるたま)が数百顆ありその形は勾玉をはじめいろいろ種類があると書き残しています。これは現在の長野市松代町にある玉依比売命神社で、毎年これらの明玉を数える神事が行われています(参照)。






15年ほど前、勾玉を作り始めた頃、勾玉に関する資料を熱心に集めていた時期がありました。東京神田の古書街にも足繁く通いましたが、そのときに新羅(しらぎ・しんら)の古美術に関する本を見つけました。それには三国時代(5世紀頃)の金冠の写真が大きく掲載されていたのですが、その金冠には装飾として多くの(58個)勾玉が付けられているのです。これが発掘された当初は、付けられている勾玉は当地の石材を使い、そこで作られたものだろうとされていましたが、今では日本の新潟県糸魚川(いといがわ)産の翡翠を使い、当地(糸魚川)で作られたものということが判明しています。つまりこの勾玉は日本から献上されたか、当然のものとして所有していたかどちらかだと思われるのです。
ここに取り付けてある勾玉をよく見ると、これらは石質、形状から判断して、弥生時代後期から古墳時代前期にかけて作られたものだと思われます
(勾玉は縄文時代から作られています)。ですから、これらの勾玉はこの金冠を作るために作られたものではなく、集められたものだと思います。どれも上質の糸魚川産の翡翠で、これだけの色あいの翡翠はなかなか見つかるものではなく、またそれがこれだけまとまって集められているというのも驚くべきことです。正に贅を尽くしたといった感じです。
微妙な形状の違いや穴の開け方から同じ工房、あるいは同一人物によって作られたとは思えない感じも受けますが、どれもすばらしい造形感覚を持った工人によって作られたのは間違いありません。
このなかに1個ちょっと変わった形状の勾玉が見られます。「子持ち勾玉」といわれているものです。この形状のものは縄文時代のものであるとする研究家もいます。これは加工するのが大変で、今のようにダイヤモンドカッターなどない時代に、よくもこういった加工をやったものだと感心します。糸魚川産の翡翠は硬玉翡翠ともいわれ、モース硬度は7以上あります。中国やミャンマー産の翡翠は軟玉翡翠といわれ、硬度は6位です。硬玉翡翠は硬いだけではなく強靭で、ダイヤモンドカッターでも削るのは大変です。水晶は、硬度は翡翠と同じ7ですが、もろい石質なので加工は容易です。因みにガラスの硬度は5、ノミ、鉋などの刃物の鋼
(はがね)は6位です。ですから翡翠は刃物では削ることはできません。
ですが、加工することはできます。つまり割ったり、細かく砕いたりすることは可能で、日本古来からの水晶の加工地である山梨県の甲府地方では伝統的に硬い石を加工するのに、荒加工には鋼を使っているということです。その様子の写真を見ると、長さ20cmほどで太さが3mmくらいの釘のような鉄のタガネを、竹ひごの柄の付いた小さな金槌
(かなづち)で叩いています。タガネも金槌の柄も弾力がありその微妙な弾力で原石を割らないように細かく砕いていくのだそうですが、これにはかなりの熟練が必要だということです。正に職人業ですね。
それから水晶に穴を開けるときにも鋼の道具を使うそうです。現在でも灯篭など石製品を仕上げるときには鋼鉄やタンガロイという非常に硬い鉄製のタガネが使われていますが、これは細長い菱形状の先端が針のように鋭いタガネで、これで細かく砕きならが穴を開けていくのだそうです。この方法は洋の東西を問わないようです。勾玉もこの方法で穴を開けた可能性は否定はできないような気がします。鉄は弥生時代には渡来人によって日本にもたらされているということですので、荒加工などには使われていた可能性は充分にあると思います。鉄よりも早くから使われていた銅や青銅などは、勾玉の穴あけ加工には持ってこいの素材だったのではないでしょうか。先に紹介した新羅の金冠に付けられている勾玉の中には、穴が小さいものがいくつか見られますが、このような小さな穴を開けるには竹や骨ではちょっと困難なのではと思えるのです。ですから、この穴は金属を使って開けられたものだと私は思います。






弥生時代よりももっと古い縄文時代前期にも碧玉など硬度が7ある石を加工した耳輪や指輪が作られていましたし、少し時代が下った頃には翡翠を加工したビーズのようなものが作られ、それには小さな穴が開けられています。ですからこの時代にも銅や鉄の加工道具があったとしか思えないのです。このような話は考古学者からみれば荒唐無稽なことでしょうが、これと同様のことは織物の出土品にも云えます。たとえば縄文時代の遺跡から、どう見ても織物の道具としか思えない木製品が出土しても、織られた布が見つからない以上はその時代に織物があったとは云えないというのが考古学というものらしいのです。想像を働かせてはいけないのでしょうね・・。
それから、漆を塗られた櫛や器なども縄文時代の早い時期から作られたということは出土品から判っていますが、この塗り面を写真で見てみると滑らかで漆の中にゴミなど不純物は混在していません。
ということは、漆を扱った人ならば判ることなのですが、漆の木から採集した樹液は不純物を漉さなければならず、そのためには漉すための布や紙などがどうしても必要なのです。それか何か他の代用品を特定しなければならない。なんとももどかしいことで・・。

勾玉について少し述べてきましたが、ここまできたら、もう少しお付き合いをと思います。私はこれまで50個ほど勾玉を作りましたが、最も手間がかかるのは穴あけ加工です。ダイヤモンド・ドリルを使っても1cm貫通させるのに30分ほどかかります。古代はどうやって穴を開けていたのかということはほぼ解明されていまして、細い管状の竹や骨を使い、先端部に翡翠よりも硬い金剛石などを細かく砕いたものを水といっしょにまぶし、それを回転させて穴を開けます。竹や骨は柔らかいので先端部に金剛砂が挟まり、それが翡翠を削っていくのです。ダイヤモンドを加工するときには、ダイヤモンドの粉を銅板にまぶして行うらしいですが、これと同じ原理です。この方法ですと、実験を行った人によると1mm掘り進むのに2時間ほどかかったということです。ということは1cm貫通させるには20時間かかるということになる・・とてもやる気になりませんね(参照)。
拙作の勾玉は当サイトでも紹介しておりますが(参照)、50個ほど作ったもののなかで今手許にあるものをUPしています。

勾玉は日本独特のもので、これまで朝鮮半島を除いて世界の他の地域では出土していないようです。朝鮮半島から出土したものの中で、翡翠(硬玉)のものは、先に述べたように日本で作られたものです。日本では縄文時代後期
(紀元前2000年頃)から翡翠の勾玉が作られ始め、それは古墳時代後期(6世紀頃)まで続いたとされています。その間2600年間作られ続けたことになります。縄文時代の勾玉は翡翠で作られたものがほとんどですが、時代が下ると碧玉(へきぎょく)、瑪瑙(めのう)など他の石でもつくられるようになり、古墳時代になるとガラス製のものから硬度2の柔らかい滑石(爪でも傷が付く)で作られたものまで現われます。これは明らかに量産されたものと思われます。そうして勾玉は姿を消していきます。
滑石で作られた勾玉は、当時日本に入ってきた中国の神仙思想の影響で、滑石は不老長寿の薬として珍重されていたので、その滑石を使って勾玉を作ったのだという説もあります。
形状を見てみると、作られ始めた縄文時代にはいびつなものが多く、穴の位置も開いていればいいという感じです。それが、時代が下るとともに洗練されていき、弥生時代後期から古墳時代前期にかけて形状としては完成されます。この頃作られた勾玉の中で最高のものと思われるものは島根県の命主社遺跡から出土した弥生時代のものでしょう。これは翡翠の質も宝石級です。それから福岡県周船寺
(すせんじ)の 観音山古墳から出土したとされる首飾りに付けられた5個の勾玉、これらは形状は独創的で、翡翠の質もかなりものもです。形が完成されると、ほどなく勾玉は消えていくのです・・


            勾玉の加工について    自作勾玉


                  Home