芸術について その二

光悦と宗達の合作といわれている色紙は、宗達が描いた下絵の上に光悦が和歌を書いたものです。
興味深いことは、これらの和歌は万葉集や古今和歌集、新古今和歌集といった古典ものばかりなのです。宗達も平安時代の平家納経の挿絵を修復したりという経験から古典を尊重していました。
これは、表現というものの本質を掴んでいたからだと私は思います。自分というものを表現するためには無我を得なければならない。無我を得るには、たまたまとか、偶然とか、あるいは無意識にとかいうものでは得られないのです。これは以前 の随想でも触れたことですが、完全に覚醒していなければならない。神がかりになった自分を冷静に見つめることのできるもう一人の自分がいなければならない。まず芸でなければならないのです。これは技術と言い換えても構いません。芸を体得しなければ術も現れないのです。日本語の芸術という言葉はそれほど古いものではないと思いますが、よくぞこういった意味深い言葉を当てたものだと感心してしまいます。
古典というものは、時代を経て多くの人たちによって厳選されてきています。見て見て見尽くされ、それでも残っている。こうしたものには、しっかりとした姿、形があります。それを模倣すれば、模倣したものの個性が自ずと現れるようになっています。言い換えれば、個性を現すためにはフォ−ム、形が必要だということです。
絵の場合でしたら、何でもいいからこの紙に描いて自分を表現してください、というよりも、このコップを見たとおりに描いてください、と描いてもらった方がその人の個性はよく表れます。音楽だってそうです。何でもいいから音を出して自分を表現しなさい、というよりも、この曲を弾いてくださいと、古典の曲を弾いてもらった方がその人の個性はよく現われる。
そういうことを光悦という人は深いところで理解していた。ましてや一流の芸を得ることの困難は想像を絶するものなのです。こういったことに新しいも古いもないのです。以下は光悦が書き残した一節です。

書画何芸にても天授というものありて、いか程精を尽くしても上達群を出る事凡そ出来ぬ物なり。懈怠しては猶行ず。其他何芸にても、其法にからまされては成就せぬことも有ものとぞ



先の宗達と光悦の合作の色紙に描かれている月を初めて目にした時の衝撃は忘れることができません。
あの色紙のように、下弦の月が秋草に埋もれているように見えることは、ここ丹波篠山ではよく見られます。光悦作品の蒔絵の箱に施された、光悦が晩年住んでいた鷹が峯に満月を配した風景、これはよく見かけるものですが、こういう月でも、周りの状況によっては月が異様に大きく見える、あるいは感じることがあるのです。このときはやはりドキリとして、思わず足を止め、しばし月を眺めてしまっている自分に気付くことがあります。ですが、あの光悦の秋草に埋もれた下弦の月ほどではありません。よくもあそこまで誇張ができるものだなと感心します。ひとつ間違えるとウソくさく、あるいはわざとらしくなってしまうギリギリのところまで攻め込んでいます。新古今和歌集の歌の中にもそういったものが多いのも興味深いところです。

ギリシャ時代の、発掘された彫像の断片などは、それだけでも十分鑑賞に堪えうるというのも不思議なことです。それだけ作者の力量が優れているとも言えるのでしょうが、我々人間というものは、見ているもののほとんどは断片なのかもしれません。人間が何かを見る場合、どこかに焦点を合わせなければならないわけですが、その焦点に気を付けてみると以外に狭いということに気が付きます。これには驚きます。だから、人間というものは断片を見るということには慣れているとも言えるのかもしれません。
このようにドキリとした経験は、振り返ってみると音楽の体験で数多くあったことを、いま思い出しているのですが、それは作曲家でもあるし演奏家でもあります。ところが、絵や彫刻には、そういったことは、いたって少ないのです。これはどうしたことだろう。
目に見えるもので、ドキリとするものは多くある。カニ、亀、クワガタムシ、キノコ、蝉やトンボの抜け殻、握りこぶし大の石(輝石)、壺、等など・・。
こうしてみると、ほとんどが自然のものですね。ということは、宗達の下弦の月の図を見ているときは、私は自然の造形物として捉えているのでしょうか。月を見たら、いつでもドキリとするわけではない。何か条件のようなものがありますね。宗達の月のようにドキリとするときがある。それは、その時のこちらの心理状態によるのでしょうか。どうもそうではないような気がします。毎日眺めている風景でも、ある瞬間、はっと息を呑むほど美しくなるときがあるのです。あ、これは美神の仕業だ、と思わずにはいられません。きっと、美を司っている何か偉大な力が働いているのです。私はそう信じます。
では、音楽はどうでしょうか・・。自然に音楽は存在しません。ということは、もし美神が音楽を奏でようとした場合、道具が必要となってきます。これが人間ですかね。そうすると、声というもの、これは美神の楽器といえるのでしょうか。ところが、人間は禁断の木の実を食べてしまったので、悪知恵が付いたのですね。なんとか楽をしようとする。そこで、無い知恵をしぼって声に代わる楽器を作ろうとしたわけですが、さて、いざやってみると、それは、あちらを立てればこちらが立たずの、なんとも手に負えない代物だったわけです。
お釈迦様の手の平の上で、ああでもない、こうでもないと、今だに無い知恵を絞っているのでありました・・




岡潔と小林秀雄が1965年に対談をしていて、その内容は多岐にわたっているわけですが、共通しているのは、人間いかにあるべきか、いかに生きるべきか、ということです。それから、芸術の根本問題にも触れられていて、このあたりは我々物を作る者にはたいへん参考になります。こういったことは、古くなるということはありませんね。人間にとっての根本問題は現代人も2000年前の人々にも同じなのです。進歩しているというのは錯覚か、思いあがりでしかないのです。そういうことを、いつの時代にも振り返ってみる必要がある、そういうことを改めて痛感させられるのであります。

先に挙げた数学者の岡潔と評論家の小林秀雄の対談では、
画家、それから文学者の作品のレベルについても話題になっていますが、その中の岡潔氏の発言などは観点がひじょうに興味深いのです。数学や科学といえども人間の感情というものが基になっていなければならない、という話から、つぎのようなことが述べられます。「現在の画家の中には、たとえば女性のモデルを女性として尊重しないような絵かきが多い。そういう人の絵は人類にとってプラスとは考えられない。すべてのことが人本然の情緒というものの同感なしには存在し得ないということを認めなくてはなりません。女性のモデルを女性としてよりも、けもの的に取り扱う。そういう状態でよい絵が描けたら、絵について考え直さなければいけないが、よい絵は描けていない。そのことに気付かないということはいけない状態です。」
それから小林氏と岡氏が同じように感じていることのひとつに、こういうことがあります。「おもしろい絵ほどくたびれるという傾向がある。人をくたびれさせるものがあります。物というものは、人をくたびれさせるはずがない。」と小林氏が言うと、岡氏も「そうなんですよ、芸術はくたびれをなおすもので、くたびれさせるものではないのです。」と同調しているのです。このことは、現代の言論人では渡部昇一氏が同じようなことを述べています。以前述べた、文学者ジェイムス・ジョイスと作曲家のシェ−ンベルクが70年前に行ったことは、このことに目をつぶったのか、見ることを忘れていたのか分かりませんが、人間の感情、情緒を抜きにしては、芸術の存在意義はないのです。こういったことに新しいも古いもないのですね。そのことを忘れている芸術家があまりにも多いのではないですか。芸術家である前に職人であるべきはずなのです。
岡潔はフランスでセザンヌの絵を見て疑問を抱き、そのことが少し判るのに20年かかった。そこで気が付いたことは、人は生後三ヵ年が”童心の季節”であり、ここでその人の中核は皆出来てしまう。それ以後のものは言わば着物である。こんなものを着ているから判らないのである。ということで、この着物を脱いでしまって裸になろうと決心するわけです。そしてそれからまた二十年かかって、ようやく裸になることができたということです。そうすると、一切が一遍にわかった。
セザンヌの絵を見ていると淋しくなるのは、彼は着物を着たまま描いているからである。芭蕉一門が僅か二・三句の名句を得るために易々と一生涯を賭けることができたのは、裸になってやっているからである。裸になることが出来さえすれば、そこが高天原
(たかまがはら)である。見るもの聞くもの皆楽しいのである。疑いなんか残らないのである。その後、私は楽しい画に色々出合った。デュフィ−、ボナ−ル、富岡鉄斎、それに熊谷守一。然し熊谷さん以外の画は、楽しいことは楽しいが一分の疑いが残るのである。熊谷さんの画にはそれが全くない。高天原そのものなのです。
ということなのですが、このことは芸術の根本問題なのです。どの分野の芸術も一流のものにはこの高天原が現れているのです。それを得るために、皆苦労していると言っても過言ではありません。私はこれをザックリとした味わいと言ったりしていますが、童心の世界とも言えるのでしょうか・・。これは、出そうとしても出せるものではない、というところが難しいところなのです。自分の個性を出すのも同様に難しいことなのですが、高天原を現すというのはその上の段階でもあるのです。言い換えれば無私を得るということです。そのためには技術的なことは克服していなければならない。端から見ると何も考えていないようなもの、作為が全くないもの、何気ないもの。これを得るのに熊谷守一も40年以上かかっています。ミケランジェロも晩年、こんなことを言っています。ようやく技術的なことが克服できそうなのに、もうこの世を去らなければならない・・・
熊谷さんは、そんなこともどうでもよかった・・・。

最後に芭蕉の句をすこし・・・


瓜の皮むいたところや蓮台野

蛤の生けるかひあれ歳の暮


節季候
を雀のわらふ出立かな



5世紀頃のエジプトの地で織られたコプト裂(きれ)というものを手に入れました。5世紀といえば約1600年前ということになりますが、これは当時の人たちが身に着けていた貫頭衣という服の飾りとして織り込まれていたものです。この模様は、この貫頭衣の裾の部分に織り込まれていたものなのですが、模様の周りの波紋はギリシャ時代の装飾品にもよく見られるものです。中央部にはやはりギリシャ神話を題材にした模様が施されることが多かったので、当時「コプト」と呼ばれていた人たちが住んでいたエジプトの地は、ビザンチン帝国から支配されていたにもかかわらず、ギリシャ文明の影響が大きかったことが伺えるのです。
この模様の中央部に籠のようなものを掲げている女性はおそらくアフロディーテだと思われます。豹は享楽の神ディオニュソスの象徴とされているものです。魚は水と豊かさの象徴・・
これらの組み合わせをギリシャ神話の題材と照らし合わせてみたのですが、部分的には合うものもあるのですが物語はちょっと判りません。ご存知の方はぜひご教示をお願いします。
それにしてもこの模様の雰囲気は不思議です。エジプトでもないしギリシャでもない。カルタゴやポンペイともちょっと違う・・東洋的といえば東洋的ですね。
こうした、紀元前6世紀から5世紀にかけてペルシャやギリシャに占領されたエジプトの地が、新しい波に揉まれながら影響を受け、それまでの自国の独自の個性が数百年をかけて新たなものに染まっていったという事実に感慨深いものを感じるのです。その後、紀元前30年にはローマ帝国の属国となり、それは紀元後4世紀まで続き、5世紀になるとビザンチン帝国
(キリスト教文化)により支配されるのですが、ビザンチン帝国の属国になったとたん、それまでの反動が噴出したかのように、頑なに自国の文化を強調している、ということがコプト裂から感じられるのです。それが7世紀、8世紀になると、図柄はこれはもう明らかにビザンチンの文化に染まってしまっているのです。こいういったことの体積物としてヨーロッパの文化は出来上がっている、ということを思うと、遠く離れた日本人がこれを理解するのは一朝一夕にはいかないということが、身に染みて感じられるのです。
エジプトと東西のローマ帝国、ペルシャ、そしてイエス・キリストが生きていた地、地中海東方の歴史、グレコ・ローマン時代の年表を書き写してみました。西暦59年からのローマでの出来事です。

59年:ネロ、母アグリッパを殺す。
60年:パウロ、ローマに投獄される。
62年:ネロ、皇后オクタビヤを殺す。この頃からセネカからルキリウスへの手紙が書かれ始める。

63年:パウロ赦免される。
64年:ネロ王ローマを焼く。ローマでの第1回キリスト教迫害。
65年:ネロの命令によりセネカが自害。この年までルキリウスへの手紙は書かれていた。

66年:聖ペテロ磔刑。地中海東方ではパウロが処刑されると記されているが、この資料はやや古く、現在では61〜62年頃ということになっています。

68年:ネロ王自殺。
70年:ローマ軍エルサレム征服。
79年:ベスビアス火山の大噴火でポンペイ市埋没。
95年:ローマでのキリスト教迫害。
100〜110年:新約聖書成る。
350年:コプト語の聖書成る。

こうしてみると、歴史というものは、情勢に大きく影響した事柄しか記されない・・、当然と言えば当然のことなのですが、たとえばイエス・キリストがゴルゴダの丘で磔刑に処せられたことは、当時ではそれほど大きな事件ではなかった。しかし、キリストが自らの予言どおりに復活したのを知った弟子たちのその後の宣教活動によって、大きな影響力を持った宗教団体へとなっていくのです。中でも印象的な出来事は、最初はキリストの迫害者だったパウロが、復活したキリストの声を聞くという強烈な体験を期に、宣教者へと大転換をするということです。そのパウロも、たびたび訪れるキリスト教迫害により殺害されるのですが、こうして殉教したキリストの弟子たち、あるいは宣教師たちが葬られた所が、皮肉にも現在の大きな教会、あるいは聖堂となっているのです。
キリストの生涯も、なにか迫害を期待していたかのようなところがありますが、これも大きな計らいだったのでしょうか・・




長年探し求めていた本をようやく手に入れることができたのですが、それは「高間筆子詩画集」といういものです。高間筆子は明治33年(1900年)生まれ、1922年、22歳で夭折した画家です。死の翌年の大正6年に、この詩画集の原本が出版されたのですが、今ではほとんど残っておらず、この状態を憂えた遺族により昭和63年に非売品として復刻されたものです。美しい装丁で、作品の何点かは原色で掲載されています。
高間筆子の作品は大正12年の関東大震災と昭和になってからの第二次世界大戦でほとんど焼けてしまい、今では見ることができません。この詩画集に掲載されているのがすべてなのです。高間筆子は死の2年前、20歳から、画家の兄の手ほどきで絵を描き始めたということです。ですからその製作期間はわずかに2年間ということになります。
生来、無口でおとなしかった筆子が、絵に没頭するようになってからは一変し、その製作態度は異様なまでの緊迫感があったということです。兄の語るところによると、絵が描きたくなるのは発作のように襲ってきて、そうなると、どこにいようと、突然「私帰ります」といって異様に一点を見据えたままの目つきで、大股で前かがみに歩いて帰ったということです。ですから下駄は爪先のところが指の跡でへこんでいたそうです。
ある時期からゴッホに傾倒し、その後はそれに拍車がかかったように激しくなり、描きはじめると昼夜を問わず没頭し、筆子は「絵描きは絵の描きたい時はいつでも昼間です。」と言って母親の心配するのも聞き入れなかったということです。
こうして描かれた絵は当時のいくつかの展覧会に出品され、大きな波紋を及ぼすわけですが、分けても同じ世界の人間、つまり他の画家たちは大きな衝撃を受けるのです。こうしているうちにも筆子の製作態度はますます激しさを増し、画学校から帰ってくると家人とは一切口をきかず、二階の自室に駆け上がり、描きかけの画布を鋭い眼で睨み据え、そして、突然荒々しい息づかいで絵筆を取りあげると、堰を切ったように描き始めるのです。そんな時は冬でも額に汗がにじみ、着物の裾を大きくたくしあげて画布に向かう姿は鬼気迫るものがあったということです。
こうした中にも、緊張を和らげる作用がはたらくためか、画布の裏やスケッチブックの端に時折詩や歌が書かれたのですが、これもまた当時の詩人たちに波紋を及ぼしたのです。死後、詩画集により発表された詩は、筆子よりわずかに年少の中原中也など、当時の気鋭の詩人たちに影響を与えることになるのです。

高間筆子のように夭折した芸術家というものに、私は少なからぬ興味を持っているのですが、日本では詩人の石川啄木、中原中也、画家は村山槐多、関根正二、靉光、松本俊介、と、こうしてみると明治から大正時代にかけて、特に画家に夭折した天才たちが多いというのは、何か意味があるのでしょうか・・。
高間筆子という人は、描かれた絵、とくに静物や風景画のように
おだやかで、あたたかい魂の持ち主だったのだと思うのですが、その肉体は、魂にとってあまりにも窮屈だったと、そんな感じがするのです。歌の調子もたおやかで、静謐な空気が流れているのに、なぜ自ら命を絶つほどの気性の激しさを持ち合わせていたのか・・。
肉体が置かれている環境になじめなかったのだろうか・・・。あまりにも自由、本当の意味での自由な魂だったので、世間の常識というもの、生活というものがうっとうしかった。そんな感じもするのです。当時、結核などの疫病で夭折した芸術家は多いのですが、この時代を選んで大挙して生まれてきているようにも思えるのです。


高間筆子の詩から一編を紹介します・・・


暖かい 暖かい まはるい空気
車の先頭から時々ほこりがほっぺたをうつ
時々うしろから たぼの毛を捲き上げる
其つめたい先が 頭の地へしみこんで
まん中で つめたくまはる
又よこから頬っぺたを打った
前の人のゴム靴の先に
ぼたん色の四角い太陽のくぎりが
おとなしさうにかがやいている




ひところジャンクア−トというものが世の中を席巻したことがありました。あれなんかは、まあ、妙なことを思いつくなあと感心しましたが、ジャンクはジャンクですからね。ゴミに価値を与えたということで、評価はできないこともないわけですが、そもそもゴミと芸術というものは相反するものですから、やはり無理がありますね。
それから、ひとつ根本的な違いは、ゴミは気に入ったら持って帰れますが、ジャンクア−トは、いいなあと思うものがあっても持って帰れないんですね。これは、ゴミを侮辱するものです。わたくしは許せませんね。




葛飾北斎について少し・・

姫路市立美術館で行われている北斎展の会場で、北斎の絵の前に立ったとたん、これまでになかった感動を受け、背筋をしゃんとせずにはいらねなかったのは何故なのか・・また、不思議だったのは、一枚の絵と会場全体のエネルギ−が同じに感じたこと・・。こういうことは今までになかった。これはどういうことだろうと、何度も絵を見ながら会場をうろうろしたのですが、どうもピンとこない。一つ一つの作品は肉筆にしろ版画にしろ、すごいパワ−があるのです。それがすべて合わさればものすごいものになるはず、なのに一枚の絵とそれほど違わないのです。ひとつ、少しわかったことは、北斎の絵は見ているとそれに引き込まれるが、目を離すと、急にそれが消えるのです。強烈に残らない。これは余韻がないというのとは少し違うのです。これは何なのだろう。 天保五年(1834年)、北斎75歳のときに版行した「富嶽百景」に、絵に対する気概がしたためられている。
己六歳より物の形状を写す癖ありて、半百のころ(50歳)よりしばしば画図を顕すといえども、七十年前画く所は実に取るに足るものなし、七十三才にしてやや禽獣虫魚の骨格草木の出生を悟し得たり、故に八十六才にしては益々進み九十才にして猶その奥意を極め百歳にして正に神妙ならんか、百有十歳にしては一点一格にして生けるがごとくならん

ありがたいことに、この北斎に対する私の戸惑いをギタリストの西垣正信さんが補足してくださったのです。
以下、西垣氏の言葉
「北斎の感動と余韻のなさは(必ずしも否定的ではなくて)良く分かる。ほんと、天才だ、北斎は。形と色、色が形をつくるし形が色を生む・・だけれども、現場ではやはりどちらかに重きを置くでしょうね。音楽でも同じことです。北斎が見いだした形、構造、というものには本当にびっくりさせられます。昨年美術館でフランス印象派と北斎の同時展示内覧で間近に観察しました、北斎の圧勝でした。
セザンヌクラスを大量に並べないと太刀打ちできない。モーツァルトや北斎、スカルラッティ、マチスのように「形」にこだわって仕事をしたい、完全な、しかも他人が気がつかない形が、そこに秘められた微かな破綻によって動きと悲しさを与えられる、創作家は皆、そのような職人芸に内心あこがれているでしょうね。ピカソは間を揺れ動きました。試しに、例のピエロを描いたら、本当に形だけになっている・・ような気がする。北斎(モーツァルト スカルラッティ)はいかにも形だけに見えても、北斎の視点と肉体を借りて見直すと、湿気や動きが、ずーと自分の体のなかに宿ります。モーツァルトがそうとしか書けなかった悲しみ、スカルラッティが自ら破壊するためにつくる細密画、北斎が形を見極めてしまった辛さ、がぼくには余韻なのでしょうね、これは芸術の本質なのか亜流なのか・・」




先日、灰掛博さんの絵を手に入れたのですが、このときは灰掛さんと、もう一人水墨画を描いている知人との二人展だったのです。


「灰掛さんの作品 「水辺の赤い花」 2004年作

この知人とは10年ぶりにゆっくりと会うことができたのですが、
知人といっても人生の大先輩で、この人からは実に多くのことを吸収させてもらいました。その10年の間に私の方は日本刀に興味を持ち、見るだけではなく、所有し、それを振り回したりしているという話を耳にしたその知人は、老婆心からだとは思いますが、最近起きた刀傷沙汰の話を切り出し、そういう趣味からは身を引くべきだと言うんですね。
そのときに感じたことなのですが、あれですね、なんといいますか、刀鍛冶や、研ぎ師の知人を見ていると、本当にそのことで苦労している人は自分が携わっているもの、刀で人を傷つけようなどとは露とも思わないものなのです。私だってそうです。木工道具の中にも殺傷能力を持った刃物はいくつもありますが、それで人に傷を付けようなどといういことは思ったこともありません。仕事が穢れますからね。また、その刃物で怪我をしたときの痛さを知っている人間は、それで人を傷つけようとは思いません。人間とはそうしたものです。私から言わせてもらえば自動車のほうがよほど恐ろしい。毎年何千人もこれによって命を落としているのですからね。

私が子供の頃は、ポケットには肥後守
(ひごのかみ)という折りたたみのナイフがいつも入っていて、それで様々な遊び道具を自分で作っていました。また、学校で使う筆入(鉛筆ケ−ス)には皆鉛筆を削るためのカミソリやナイフを入れているのは当たり前でした。ですからときにはひどい怪我もするわけですが、その痛み、誤って自分の指を切ったときの、えも言えぬ体の疼き、それを知っている人間はそれで人を傷つけようなどとは決して思わないものです。




澤井泉源さんとの付き合いは5年ほどになりますが、今回初めて個展を見せてもらったのです。ギャラリーに足を踏み入れると、ほのぼのした空気に包まれた・・
こういったことは、ここのところほとんど経験していなかったので、素直に来てよかったなと思った。これでなくてはいけません。絵や工芸品の展示会場は固い雰囲気のところが多いのはなぜだろうと、よく思うことがあるのですが、まぁ、作者の気合が入っているのは仕方がないとしても、それが見る者に圧しかかってはいけませんね。そこのところの心遣いをしていたとしても、展示されている作品自体の影響が大きいだろうから・・そういうことだから、これは望んでも無駄なのでしょう。
その点、澤井泉源さんの個展会場の雰囲気は作品と作者の人柄が渾然一体となっていて、柔らかく体を包んでくれたのです。これは嬉しかった。
泉源さんの木工作品は琵琶湖に長い間浸かっていた木を主に使っているということですが、それは舟であったり、流木であったりするのだそうです。こういった素材を使った木工作品は暗く湿った感じのものが多い中で、泉源さんの作品はからっとしていて、凛とした雰囲気がある。それに加え知的でセンスが良い。木工技術の高さを少しも感じさせないのも、これはなかなかできるものではない。素材が素材だけに、たとえば元の質感と加工した切り口の質感はあまりにも違うので、その処理は大変困難だと思うのですが、泉源さんはそれを何気なくやり遂げている。これには感心させられてしまう。所々に使われている金具も元々素材に付いていたものか、泉源さんの手によって作られたものか、見極めることは困難なのです。そこのところにも感心する。
ギャラリーに入ったら、会場の真ん中にデンと据えてある椅子に老婦人が腰掛けて居られた。その婦人の笑顔が、腰掛けている泉源さんが作った椅子から出ていることは明らかで、こういう笑顔を、作者は見るのが何より嬉しいし、また励みになる。話を聞くと、以前泉源さんの椅子を買って、今度はテーブルが欲しくなり注文をしに来たということ。そのやりとりを聞いていたら、とぼけたような、飄々とした泉源さんと、大仰な身振り手振りでテーブルの注文を付ける婦人との漫才のようで、思わず大きな声で笑ってしまった。他の来場者もつられて笑ってしまい、会場はなんとも言えずいい雰囲気になったのでした。
これは泉源さんの人柄の何ものでもなく、羨ましくもありました。
まだまだゆっくりと会場の雰囲気を楽しんでいたかったのですが、次々に訪れる来場者に申し訳なく感じたので、後ろ髪を引かれる思いで会場を後にしたのでした・・。そのとき、あの老婦人が初対面の私に大きく手を振って、バイバ〜イとガラスの向こうで言っていたのです。


その一 その三

その四 その五

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